かつて厳格な主知主義者と目されていたポール・ヴァレリーの精神世界において、波乱にみちたエロスの劇が重要な役割を果たしていたことが知られるようになって久しい。近年、遺族によるプライバシー管理がいくぶん緩やかになったことにともない、ヴァレリーが女性たちに宛てた書簡を中心とする資料が公開・公刊されている中で、この論文集『愛のディスクール――ヴァレリー「恋愛書簡」の詩学』[1]出版は、まさに時宜を得た企画と言えるだろう。冒頭の鳥山定嗣氏によるヴァレリーの恋愛遍歴の概略は、最新の研究成果をふまえたもので、専門家のみならず一般読者の理解にも資するよう、手際よくまとめられている。
序論で森本淳生氏が述べているように、ヴァレリーのエロス体験は、彼が生涯追求した命題「ひとりの人間に何ができるか」と密接に結びついており、その命題の下ヴァレリーが精神形成をしていく過程で、女性たちとの出会いは枢要な節目をなしている。この論集で取り上げられているヴァレリーの恋愛相手、ロヴィラ夫人、カトリーヌ・ポッジ、ルネ・ヴォーチエ、ジャン・ヴォワリエのうち、思想家ヴァレリーの出発点において決定的な意味を担っていたのは言うまでもなくロヴィラ体験だが、エロスをどのように思索に取り込んでいくか、という点で原型となったのはカトリーヌ体験であり、その後のエロス遍歴はおおよそすべてそれが下敷きになっていると言って過言ではない。たとえばルネ・ヴォーチエとの関係の要諦は、簡単に言えば「報われぬ愛の苦悩」ということになるが、閉鎖的な内面空間における苦痛のサイクルなど、基本的なモチーフはカトリーヌ体験を継承している。さらにジャン・ヴォワリエとの関係は、相手の女性がカトリーヌほど知的共鳴を誘う人物ではなく、晩年に差し掛かったヴァレリーがあけすけに肉欲に没入する、という違いはあるにせよ、神秘主義的要素の発現など、知的構図においてほぼカトリーヌ体験をなぞっている。そうした観点から、以下カトリーヌ体験に力点を置きつつ、それぞれの論考について私見を述べることとしたい。
今井勉氏の論考「抽斗にしまった手紙──ロヴィラ夫人問題を考える」は、ヴァレリーにとっての最初の危機、ロヴィラ体験に関するもので、長年にわたる氏の研究に基づいている。この資料へのアクセスは現在Gallicaにより容易となっているが、かつてはフランス国立図書館での筆写が唯一の手段で、読解の困難さから大変な作業であったことと推察される。
今井氏の記すように、このテクストは往復書簡ならぬ片道書簡であり、投函されずに終わった未遂書簡であるという点で、その後の恋愛書簡とは性格を異にする。ここで今井氏は夫人との出会いを記した1889年7月8日のメモにはじまるいくつかの資料、とりわけ1891年7月4日の「恋文草稿」を「導入」「手紙の理由」「ロヴィラ夫人の肖像」「願い」「哀訴」という5つのパートにわけて丹念に解読し、そこに記されたイメージや、底流にうごめいている欲動の方向性を示しつつ、ヴァレリーの想像界でロヴィラ夫人が理想化されると同時に奇怪な変容を遂げていく過程を辿っている。
今井氏に倣ってこのロヴィラ夫人宛書簡をひとつの文学的創造、「文学のエチュード」として読むならば、神話的・文学的レファランスの多用といった要素は認められるものの、想定する読者、すなわちロヴィラ夫人に決して到達することなく孤絶した想像界のなかで増幅したテクスト、という点で、一般読者をも想定して書かれた作品とは性格を異にしている。もちろん広い意味において、今井氏のいわゆる「想像界の〈ドラマ〉」が文学的な性質を持つことは疑いの余地はないが、ヴァレリーの意識において、このテクストがどこまで狭義の文学的創作、制度としての文学作品を意図したものだったのか、という疑問については検討が必要だろう。
これに関連して今井氏は1940年8月の『カイエ』(C, XXIII, 589-590)を引用しつつ、「ヴァレリーにとっての文学は、恋愛の毒に対抗して制作される、いわば解毒剤、危機を乗り越えるための治療だった」と指摘し、この断章においてヴァレリーが「恋愛という感情体験が新たな文学の重要な創造契機になるということを肯定している」(84頁)とする。ここでヴァレリーが自分にとって文学とは「愛情と嫉妬の想像的な毒に対抗するひとつの方法」であり、「文学、あるいはむしろ、精神的なもののすべては、つねに、私の反=生、反=感覚なのだった」と記していることから、おのずと想起されるのはもちろん『カイエ』だが、興味深いのは、ここで挙げられている作品が『エウパリノス』と『魂と舞踏』である点である。エクリチュールの力に頼るにしても、『カイエ』におけるように抽象的、抑圧的に働くのと、「苦痛から壮麗な歌を惹き出す」(C, Ⅷ, 41)ごとく、苦痛や欲望を神話的形象のうちに文学的に昇華するのとでは、方向性は大きく異なるだろう。仮にロヴィラ草稿を文学的創作と解釈するならば、ここでぎこちなく行われた作業が、カトリーヌ体験の際に、より洗練した形で行われたとも言えるのではないか。そういう意味で、ロヴィラ草稿と後年のテクストの差異と連続性とに着目することもできるのではと感じられた。
さらに後年のエロス体験に触発されたテクストと比較し、ロヴィラ草稿の特異な側面を挙げるならば、その根源にある恋愛がエクリチュール生産の動力であったと同時に、文学的創作断念の契機ともなった、アンビヴァレントな体験であり、いわばエクリチュールの自家中毒をもたらすような体験であったということである。ロヴィラ草稿を読みながらおのずと浮かぶ疑問は、こうしたエクリチュールがどのようにして『カイエ』のそれに移行したのか、ということであり、それはまた「ジェノヴァの一夜」と名付けられた心理の劇が、実際にはどのような経緯でなされたのか、という問題にも接続していくだろう。
松田浩則氏の論考「カリンとポールの物語――Ave atque Valeをめぐって」は、ヴァレリーのエロス体験の中核をなすカトリーヌとの関係の実相を検証している。カトリーヌの『日記』と書簡によって、両者の関係のかなりの事実が判明してきたわけだが、松田氏はその経緯を、さまざまな逸話をまじえて辿っており、あたかも一篇の小説のような趣の論考である。
特に重要な出来事として取り上げられているのは、1920年6月17日の出会い、同年9月15日から10月6日までのヴァレリーのラ・グローレ滞在、その後のカトリーヌの体調悪化と想像妊娠、1925年11月のカトリーヌとジャンニーとの会見、1928年1月24日の別れ、などだが、そうしたいきさつとともに、それに誘発されたカトリーヌによる創作行為として、ValeとAveと題された詩に対し丁寧な読解が施されている。また最後に付されたスウィンバーンの詩の一節をめぐる逸話も、いままであまり知られていなかったことで興味深い。
ヴァレリーとカトリーヌとの関係は、幸福な絶頂感が継続した時期はわずかで、むしろ葛藤と闘争の連続だったが、その原因についてはさまざまなことが語られている。松田氏も指摘しているように、ヴァレリーが社交界、特にミュルフェルド夫人のサロンに出入りすることへの嫌悪や、妻ジャンニーへの嫉妬、エドゥアール・ルベー秘書という立場に甘んじる彼への不満、といったことがカトリーヌの内心には鬱積していたであろうし、それ以外にも痴話げんかの種のような逸話はいくつも存在する[2]。そのうえで松田氏は、カトリーヌの設定した恋愛に関する規範、すなわち「精神と魂と肉体を同時に絶対的に与える」という感情と倫理面での全面的贈与という条件にヴァレリーが従わなかった、という点を、離別の決定的な理由として指摘している(110頁)。
もっともこれはあくまでカトリーヌの視点によるものであり、それに対するヴァレリーの言い分は、残存する書簡の少なさによる情報の非対称性のため、検証が困難である。また『カイエ』における記述は抽象化されたもので、生々しい事情をそこから読み取ることはできない。
カトリーヌの『日記』や書簡から垣間見られるヴァレリー像は、自らの不調をかこつばかりで相手の病態に深く配慮することもない身勝手な駄目男のそれであり、彼女の中で理想化された純粋知性たるヴァレリーと現実の俗物の姿との間で引き裂かれた絶望的な苛立ちが、辛辣な筆致で繰り返し記されている。そのようにヴァレリーの側に不和の原因が大いにあったにせよ、そこにはカトリーヌ自身の性格の問題も少なからず介在しているのではないか。エレーヌ・M・ジュリアンが指摘するように[3]、彼女の『日記』において典型的なのは自分が主役のように振る舞う自己演出である。松田氏は恋愛関係の渦中での「愛の主従関係の逆転」を論じているが、むしろカトリーヌは少なくとも恋愛関係においては常に優位的立場を取りたがっており、そこにプロテスタント的な厳格さ、他者への要求の高さが加わる。さらには彼女のコンプレックス、女性であるがため兄のように高度な教育も受けられず、知的成果も認められないことに対する不満や承認欲求、孤独感が常に伏在していたと思われる。そうした承認欲求は出会いの当初からの、自著『自由について』の評価へのこだわりのうちに端的に見受けられるが、彼女はヴァレリーによってはじめて自分が正当に認められたと感じ、さらには知的にヴァレリーを所有したいという欲求を抱いたのではないだろうか。そのいっぽうで、彼女はヴァレリーに対し自身のアイデンティティが奪われるような深い劣等感にも苛まれ続け、『カイエ』を整理するという名誉ある仕事を託された後も、そのことで自分が世間からしかるべき評価を受けられるのだろうかという危惧を表白している[4]。
松田氏はヴァレリーが「地上的な愛にこだわった」とし、この論考を読むかぎりでは、ともするとヴァレリーは単に身体を求める好色な中年男に見えてしまうが、留意すべきは彼にとって身体的な融合、性的な絶頂感が、単なる肉欲だけにとどまらず、存在の認識の問題、心身問題にかかわる要素だったことである。彼女の結核の病状を理解せず身体を要求し続けるヴァレリーの姿は、たしかにあさましく感じられるものの、彼の側ではエロス体験によって身体性を解放することで、存在の秘められた部分を開示するという試み、別なる我と交流を持つことで存在と認識が交わるという試みを、ある程度切実かつ真剣に実践していたのではないかと推測される。
ヴァレリーとカトリーヌの関係において個人的に最も興味があるのは、両者の神秘主義的資質[5]がどういう点で共通しており、影響を与え合ったのか、という疑問である。そういう意味でValeとAveの松田氏による丁寧な読解は示唆に富む。これらの詩でうたわれているのが、カトリーヌが志向した「神秘的な愛」であり、「太陽」という表現が宇宙的次元での合一を示しているとすれば、ここではヴァレリーの存在を匂わせながらも、別なる存在に帰依していく態度によって、ヴァレリーとの決別を曖昧ながらも表明しており、両義性を含んだものと言えるだろう。ここで最終的に目指される「絶対者」というのが、いかなる存在なのかが問題となるところだが、それが人格神としての他者であるとすれば、これこそヴァレリーの神秘主義と相容れなかった部分ではないかと考えられる。
松田氏の読解でとりわけ重要と思われたのは、詩の一節に『魂の肌』のテーゼが投影されているという指摘である。過去の経験をも含んだ「感受性のネットワークが肌のように構成され」(131頁)心身相関の結節点としての「魂の肌」を形成し、感覚によって、物質世界と同質である精神的現実に到達しうるというカトリーヌの思想が、当時の生理学・心理学との連関においてヴァレリーにどこまで共有されたのか、またそれと関連して、こうした思想が『固定観念』の有名な一節「人間においてもっとも深いもの、それは皮膚である」(Œ, II, 215)に何らかの反響を及ぼしているのかというのは興味をそそる問題であろう。さらにこうした思想的な共鳴関係は、ヴァレリーが彼女の思想を盗んだというカトリーヌにとっては深刻な疑念の真相をめぐる問題にもつながるものだろう。
鳥山定嗣氏の論考「恋文を書くナルシス――「愛アムール」の女性単数形をめぐって」は、恋愛書簡とナルシス関連作品との関連をさぐりながら、詩篇のうちにプライベートな関係を読み取ろうとする試みであり、またさまざまな次元での性のゆらぎを分析した論考である。詩篇や書簡に現れる単語の性別に着目しつつ、語法の精細な説明と、広範な資料探索に基づいた読解がなされている。ここで示されている、他者関係における性のゆらぎ、およびナルシス的に二重化された意識内での自己愛は、ヴァレリー的エロスの本質的要素と見なしうるものであろう。
まず、恋愛書簡や詩の中で「愛」という単語が女性単数形で記されている件についてだが、これはヴァレリーとカトリーヌの双方に、通常の文法規範にとらわれず、言葉をその根源的な性格に従って使用しようという意図が共有されていたものであろう。ヴァレリーにおいては、単語の語源に遡って意味作用を考える基本的態度があったが、単語の性別についても、そのような検討がなされたのではないか。鳥山氏が指摘するように(176-177頁)、ヴァレリーの詩において特にナルシスの自己愛と関連して女性単数形が使用されているのは、ナルシスの女性性ないし両性具有性を強調しようとする意図があったと考えられる。いっぽうカトリーヌの側でも、中世以来のこの単語の用法についての知識以外に、外国語、特に「愛」を女性名詞として持つドイツ語に堪能だったので、フランス語の文法規則を相対化する視点を有していたのではないかとも推察される。
ヴァレリーとカトリーヌの間での性のゆらぎ、という問題について言えば、これは両者の関係において常態化していたものと思われる。ヴァレリーはカトリーヌとしばしば戯れに性の入れ替えをしていたふしがあり、鳥山氏もいくつか例を挙げているが、きわめつけはヴァレリーをポーリーヌと呼ぶ1921年12月25日の手紙[6]である。ヴァレリーによるカトリーヌ宛書簡の多くが消失したため断言はできないが、後のヴォワリエとのやり取りでもこうした表現が見られることから、おそらくこの頃よりヴァレリー自ら好んでこの呼称を用いていたことと推測される。これは言うまでもなくヴァレリーの子供っぽさ、女々しさを示すと同時にカトリーヌの雄々しさ、攻撃性をある程度反映したものであろう。
実際、ヴァレリー自身通念的な意味での女性性を自分のうちに自覚しており、恋愛相手に対して弱さをさらけだし、嘆き節で相手に甘え、よりかかる態度が顕著である。いっぽう、松田氏も指摘するように(140頁)カトリーヌ自身も自分を男性化しており、また鳥山氏の表現を借りれば、「ポッジの頭脳に宿る「真の人間」はおそらく性差を超えた存在であり、その身体に取り憑くさまざまな人物のなかには女性もいれば男性も混じっている」(p.178)というふうに両者の間では認識されていたのであろう。このような自己規定は、ヴァレリー自身のプロメテウス願望を想起させるが、少なくとも想像界においてあらゆる個性を持ちたいと願っていたヴァレリーにとっても、性差の壁は表象の次元では容易に乗り越えられるものであったろうし、実際にふたりの間の交流においては、ジェンダーを交錯させたり逸脱させたりするようなやりとりがあったことを窺わせる。
こうした性のゆらぎは、ヴァレリーのナルシス的意識構造を特徴づけるものと言える。そもそも若きパルクという女性によって意識の変遷を描いたこと、また『注記と余談』の中で、意識がelleと女性性を強調されて表記されることにもそうした内的女性性への志向は読み取れる。さらには『神的ナル事柄ニツイテ』の中で純粋意識の代弁者のような形で登場するダイモンが、両性具有的な性格を帯びていること[7]からも、内的な性の二重性や意識の両性具有的性格がヴァレリーの脳裏にあったことが了解される。
周知のように、ヴァレリーのエロス関係とは、ナルシス的に構想された「内なる他者」の反映を現実の他者の上に見出すことにあるが、興味深いのは、鳥山氏が論考の最後でふれているように、ヴァレリーが意識のナルシス構造を恋愛相手にも認め、二重化された意識の融合を夢見ていることである。これはさらに、彼が単に自らの内部の鏡像関係を他者の上に投影しているだけなのか、あるいは他者との相互主観の成立に対して何らかの配慮があるのかどうか、という問いをも呼び起こすものだろう。
鳥山氏は、とりわけ「ナルシス断章」における語句や二人称の使用法、また草稿中に記入された記号などを分析しながら、そこに込められたカトリーヌ体験の痕跡や、カトリーヌに向けられた暗示的なメッセージを読み解いているが、いずれも首肯しうる見解である。ただこの詩がカトリーヌ体験からの悪魔祓い、自己治療のために書かれたことは間違いないにせよ、「〔男女の愛とは〕無縁のナルシスの自己回帰をうたいあげる」(198頁)という指摘は、特にこの詩の末尾の解釈としては疑問が残った。テクストの多様な読みは無論可能であるにせよ、不吉な闇に沈んだナルシスが泉に映じた似姿と一体化を願いつつもかなわないというこの一節からは、むしろ頓挫した愛への喪失感と孤独による懊悩を読み取るべきではないか。採用されなかった別の企図[8]も含め、この終局部の解釈にはさらに検討の余地があるように感じられた。
塚本昌則氏による「ヴァレリーと犯罪──カトリーヌ・ポッジと「奇妙な眼差し」の形成について」は、「犯罪」というテーマを扱ったオリジナルな着眼の論考である。塚本氏は、このテーマを第一に、カトリーヌとの関係においてそれがどのように現れてきたかという観点、第二に精神の一般的傾向としての犯罪、という観点から論じている。
最初の、カトリーヌとの関係において現れる犯罪については、まずヴァレリーが恋愛相手に対し異常に接近し、全面的な融合を求めること、それが幻滅さらには憎しみに転じ、さらにさまざまな作品の構想において犯罪のモチーフとして現れる、という分析がなされる。これはカトリーヌ体験に触発された『オルフェウスとエウリュディケ』の企図に顕著に認められる事実であろう。ヴァレリーは「地獄堕ち」を中心とするこの作品構想において、詩人としてのオルフェウスに自らを仮託しつつ、エウリュディケに対する愛憎の果ての、地獄の神々への呼びかけや、蛇による女殺し、というモチーフを展開している。
ヴァレリーの自画像としての「天使」の造形は、オルフェウスのそれを引き継ぐものだが、塚本氏は犯罪のテーマが『天使』の初期草稿に現れると指摘し[9]、この形象の持つ世界から離れていこうという眼差しと、犯罪というテーマに関係性があるとしている。
言うまでもなく天使という造形はドガとの対話や、パスカルの『パンセ』の一節、またスコラ哲学における定義にかかわっており、透徹した眼差しの主体として語られる。天使としての主体はあらゆるものから自分を無縁なものとして見る純粋意識の象徴だが、ナルシス的な鏡のモチーフと組み合わされたこの草稿においては、天使たらんとする意識が、人間にほかならならず、苦しんでいる自分を見る、という構図も読み取れる。そうした構図を敷衍するならば、犯罪者の一節は、意識が、自分の犯した罪自体をも無縁のものとして見、自らと結びつけることができない、自分の中に犯罪者であることの痕跡を認めない、ということを表しているようにも読めるだろう。すると、塚本氏の論の後半の、この眼差し自体が罪深いもの、という論理とそれがどのようにつながっていくのかという問題が生じる。
続く、精神の基本的なメカニズムのひとつとしての犯罪という指摘は重要であろう。一見外的な行為に見えることも、心的事象の枠組みで捉えなおして分析する、ヴァレリーの基本的態度がここにも通底していると言える。塚本氏は、「夢」との関連において、生活の細部に浸透して様相を一変させる共鳴器としての機能を犯罪のうちに認め、いっぽう自らを世界から引き離し世界を消し去ろうとする傲慢さと結びついた眼差しをも、そもそも罪深いものとしている。
疑問として浮かんだのは、このふたつの「罪」(共鳴器としての機能と、眼差しの罪深さ)は対立するものなのか、あるいは共存するものなのか、また上述したように『天使』草稿における眼差しは、この罪深い眼差しと同一のものなのか、ということである。塚本氏にはこうした疑問を解明するような、論のさらなる展開を望む次第である。
森本淳生氏の論考「愛のエクリチュールと「不可能な文学――マラルメ、恋愛書簡、〈私〉の回想録」は、愛のディスクールを紡ぐ行為が、ヴァレリーに対し、存在の「欠如」に関わる「不可能な文学」「不可能な作品」の問題を自覚させた、ということについて論じたものである。
この「不在」「欠如」に関する氏の指摘の主眼は第一に、ヴァレリーの恋愛書簡が、「不在」の相手に向けられたエクリチュールであり、目的を完遂することのできない未完のエクリチュール、いわば「進行中の作品」である、という点、第二の指摘は、ヴァレリーの意識的制作が、存在論的な次元で、到達しえない中心ないし無限遠点との関係において営まれていた、という点にある。
このうち後者は、ヴァレリーの生涯にわたる営為、特にいわゆる彼の神秘主義が、いわく言い難いもの、表象しがたいもの、あるいは認識不可能なものに接近しようという意図に基づいていたことを想い起すならば、周知の事実として首肯しうるものであろう。ここで森本氏は、不可能な作品をめぐってヴァレリーが探究し続けた「「中心」は、意識する自我、純粋自我としての中心などではなく、むしろ自己の存在のなかに穿たれた十分には意識できない欠如を指し示すものである」(258頁)としている。しかしながら、この欠如と、意識の志向性の場である純粋自我とは無関係のものではなく、トポス的には重なり合うか、少なくとも隣接したものではないかという疑問を抱いた。すなわちヴァレリーにとって重要なアポリアであり続けた心身問題の文脈において、意識の発出する場は、けっして意識化されることはない、有名な比喩を用いれば「眼は自分自身を見ることができない」、という意味において、ヴァレリーにおける到達不能なもの、表象不能なもの、「曖昧なもの」をめぐる探究の眼目は、まさに意識の基盤をなすところのその根源にあったのではないだろうか。
また、『注記と余談』の中でもっとも謎を孕んだと言える「自我」と「X」とをめぐる一節について、「意識の核となる「自我」と、それに対してすべてがひとしなみに現れる対象の場「X」」(257頁)と断定的に定義するからには、さらに十分な論拠が必要であると思われた。
論考の後半で、森本氏は、1942年頃に執筆された未完のマラルメ論と、1942年の『カイエ』に記された「回想録」、そして恋愛書簡という3種類のテクストを重ね合わせ、「不可能な作品」をめぐるヴァレリーのエクリチュールの方向性の共通点を探っている。とりわけ論考の後半は、晩年のマラルメ論を中心に展開されているが、マラルメとの関係に恋愛書簡という補助線を持ち込むのは、一見唐突にも見えるものの、『神的ナル事柄ニツイテ』の枠組みの中で、エロスを体現するアチクテと、知性の極限としての意識的な死を成し遂げたとされるソクラテス(これはおそらくマラルメを念頭に置いたもの)という両者が並置されていることからも、これらは意外と近接した位置にあるのではないかと考えられる。
エロスの劇においては、愛を仮想敵として知性という偶像を奉じてきた姿勢が転換され、愛を通じて不可能な作品を作り上げようという試みがなされたが、それはすなわち存在と認識の交わる地平において、「到達不可能なもの」をいかに現前させるか、という企てであった。
いっぽうヴァレリーは知的に親密な人物に対しても、恋愛関係と同様に、独我論的な閉塞感を癒し自己の「欠如」を埋めてくれるような存在を求めていたが、マラルメとは彼にとってそのような存在であり、また理想化された自己であると同時に、乗り越えるべき知的な指標でもあった。『心的ナル事柄ニツイテ』に話を戻せば、草稿のうちにハムレットに関する挿話が含まれていること[10]からも、父子関係の問題としてソクラテス=マラルメの死をヴァレリーが意識化していたことの傍証になるかもしれない。
結局ヴァレリーはマラルメの死に、超克すべき、人間の偶有性という問題を重ねているのではないだろうか。絶対的なものの成就と偶有性からの解放を文学という次元のみに留めていたマラルメを、精神のより広範な使用によって乗り越えようとしたヴァレリー、という基本図式は維持されたうえで、晩年に近づいたヴァレリーが死を考え、「ひとりの人間に何ができるか」という命題に立ち返った時、マラルメはそのモデルケースであり、またカトリーヌ体験以降、エロスも、その命題と結びついていたと言えるだろう。
最後の女にからみつく蛇の図像とマラルメ論との関係は私には判断しがたいものであった。蛇はヴァレリーにおいて一義的には意識の象徴であり、蛇にかまれる女というモチーフは『若きパルク』においては感覚的刺激による意識の目覚めを表し、女に差し向けられる地獄の蛇は、『オルフェウス』の構想以来はぐくまれていたイマージュである。ヴォワリエとの関係のどのフェーズで描かれたデッサンか、という疑問を抱くとともに、これが父殺し、という主題との関連におけるマラルメの首とかかわっている、というのは興味深い仮説と思われた。
論集を通読して抱懐した疑問は、真の意味でヴァレリーと女性たちとの間に相互理解はあったのか、相互主観の場は築かれたのか、清水徹先生のいわゆる「ヴァレリーにとって他者は存在したのか」ということである。『固定観念』の中でヴァレリーはマルティーニ作曲の歌曲『愛の歓び』の一句を引いて、「愛の歓びは束の間しかつづかず」(Œ, II, 208)と書いているが、彼の恋愛遍歴は、まさに短期間の至福の時間と、それに引き続く苦痛の繰り返しで、それもまさに内面で増幅される苦痛「自分の中の地獄」であり、にもかかわらずなぜ幾度もそうした地獄に自ら分け入り続けたのか、という疑問もまた、いまさらながら頭に浮かんだ。今後発展させうる数々の問題系を孕んだ論集をまとめた森本氏、鳥山氏の努力に敬意を表したい。
(『ヴァレリー研究』第9号より転載)
[1]以下、文中でページ番号のみの表記は、本書の該当箇所を示す。 [2]たとえば、ヴァレリーが身なりをかまわなかったことがカトリーヌの不興を買ったこと、ヴァレリーがカトリーヌの過去の男友達アンドレ・フェリエに対して嫉妬がましいことを言ったことなど。Cf. Hélène M. Julien, Le roman de Karin et Paul, L’Harmattan,2000, p. 107-126. [3]Ibid.,p. 45. [4]Catherine Pozzi, Journal 1913-1934, Nouvelle édition, revue et complétée, établie et annotée par Claire Paulhan avec, pour les notes, la collaboration de Éric Dussert, Phébus, 2005, p. 310. [5]両者ともに、自分が「神秘家として感じる」というまったく同じ表現を用いている。C, VII, 855および、カトリーヌの『日記』からのローランス・ジョゼフによる引用(Catherine Pozzi, Peau d’âme, préface et notes de Lawrence Joseph, La Différence, 1990, p. 8)。 [6]Catherine Pozzi et Paul Valéry, La Flamme et la cendre, Correspondance, édition de Lawrence Joseph, Gallimard, 2006, p. 253. [7]C, XVII, 599. Cf.Fabienne Mérel, « Le personnage d’Athikté dans le Peri tôn tou theou »,in« Du divin et des dieux » : Recherches sur le Peri tôn tou theou de Paul Valéry,Franz Johansson, Fabienn Mérel et Benedetta Zaccarello (éds), Frankfurt am Main, Peter Lang Édition, 2014, p. 126. [8]Cf.Judith Robinson « Le Finale du Narcisse, Genèse du texte et archéologie du sentiment », in Ecriture et génétique textuelle, Valéry à l’œuvre, textes réunis par Jean Levaillant, Presses Universitaires de Lille, 1982, p. 111-130. [9]これらの構想とおそらく関連して、カトリーヌとの往復書簡の中でも匕首で刺すといった表現が幾度か用いられていることは注目に値しよう。たとえば以下の記述参照。1921年11月18日のカトリーヌの『日記』(Catherine Pozzi,Journal 1913-1934, p. 229. La Flamme et la cendre, p. 214にも収録。C, VIII, 372に同様の記述あり)。あるいは1922年2月5日のカトリーヌからのヴァレリー宛書簡(La Flamme et la cendre, p. 307)など。 [10]PÉRI TÔN TOU THÉOU, ms, B.N.F, (N.a.fr. 19032), f˚128.Cf. Nicolas Cavaillès, « Divergence de Paul Valéry et Catherine Pozzi »,in« Du divin et des dieux » : Recherches sur le Peri tôn tou theou de Paul Valéry, p. 215.