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アルジェリア人作家ラシド・ブージェドラの作品研究を通じて自らのアルジェリア体験を振り返る / 椎名隆一

 先般、大学院の修士論文で、アルジェリアのフランス語表現作家ラシド・ブージェドラ(Rachid Boudjedra、1941-)の幾つかの作品について考察したので、簡単に内容をご紹介したい。なお、はじめにお断りしておかなければならないのは、筆者は数年前に社会人生活を終え、長年住んだ東京を離れ、今は京都で年金生活を送っている者である。自由な時間ができたので、若い頃習ったフランス語をもう一度勉強し直そうと思って大学に通うようになった。修論のテーマは、Étude de La Répudiation et de La Vie à l’endroit de Rachid Boudjedra - la sublimation littéraire de la violence politique par un écrivain menacé -という長たらしい題名であるが、ブージェドラのデビュー作La Répudiation(1969年。『離縁』という題名で邦訳が出ている)と、アルジェリアが深刻な社会的危機の中にあった1990年代~いわゆる「暗黒の十年décennie noire」~に書かれた同じ作家のLa Vie à l’endroit(1997年。第13作目の小説。未邦訳だが『表を向いた人生』とでも訳せようか)という作品を比較分析してみた。


 なぜ、アルジェリア文学、そしてこの作家をとりあげたのか? それは、純然たる文学的動機というよりは、アルジェリアに対する自分の長年の思いが背景となっている。実は、今から半世紀近く前の1970年代、大学生時代にアルジェリアに3年ほど住んでいた。独立後のアルジェリア国家建設事業に微力ながら参加していたのだ。Algerに1年半、後は地方都市であるEl Asnam(独立前はOrléansvilleと呼ばれ、現在はChlefという名称に変更されている。1980年に大地震に見舞われ、町は倒壊した)や、アルジェリア第二の都市Oranから南に200kmほど下ったところにあるSaïda(アラビア語で「幸福」という意味)という都市に長期滞在していた。いずれも、アルジェリアのSNMC(建設資材公団)が推進するセメント・プラント(日本のコンソルシアムが工事を受注していた)の建設地であり、私は主に工事関係のアドミや工場建設の施工過程における細かい技術交渉のフランス語通訳をしていた。当時のアルジェリアは、まだイスラーム原理主義もなく、石油価格の上昇を背景に国庫が潤沢で、独立後の国家建設の意欲に燃え、国民の表情は明るかったという印象である。いずれにせよ、当時、地中海にも面したこの明るい陽射しの国に私は大いに魅了された。こうした体験を経て日本に帰国後、大学に復学して卒論でアルジェリア社会の問題について書いた。詳しく言えば、「アルジェリアにおけるカビール問題」というタイトルで、言語少数派のベルベル人が多く住むカビリー地方の社会構造を考察した。フランスにいるアルジェリア人移民の多くを占めるカビリー出身者の独特な集団的凝縮性を、出身地の家の構造や家族制度などの分析を通じて考えてみた。アルジェリアで教鞭をとった経験のある社会学者のピエール・ブルデューが行っていた分析を参考にしながら書いたのだが、当時ブルデューがどういう研究者なのかよく知らず、アルジェリアの専門家だとばかり思いこんでいた。卒論を指導していただいた歴史学者の故二宮宏之先生は、ブルデューがからんでいるので(?)興味をもっていただいたのか、熱心に指導していただいた(なお、当時、マグレブ文学というのはまだ日本ではよく知られておらず、文学の視点でアルジェリアについて論文を書くという発想を私は全く持っていなかった。カミュの研究者であった西永良成先生からアルジェリアのことについて聞かれたことはあったが)。こうして大学時代は、アルジェリア関係の学術論文等の翻訳や、ガイドブックの編纂、フランスのアルジェリア人移民問題(カビール地方の出身者が多い)などについて専門誌に短い論文を投稿などしていたが、経済的理由で学問を継続することを諦め、金融関係に就職した。


 そして、アルジェリアとの2回目の出会いがやってきたのは1980年代末であった。当時、ロンドンの金融街シティで働いていたが、定期的にマーケッティング(要は金貸し)でヨーロッパ大陸や北アフリカを回っていた。アルジェリアの国立銀行の一つであるCrédit Populaire d’Algérieとの商談がまとまり、日本で債券を発行して資金調達することになった(後にも先にも、こうしたアルジェリアの機関が日本で債券発行した事例はこれしかないと思われる)。このため、いろいろな準備も含めて、当時何回かAlgerを訪れた。一度は、日本からやってきた会社の役員と一緒に行ったが、アルジェリア側との打ち合わせの後、時間があったので、観光でローマ遺跡のあるTipasaまで案内した。70年代にアルジェリアに住んでいたときもカミュのNocesに謳われた同地を何度も訪れたが、久しぶりに再訪問することは嬉しかった。しかし、Algerからタクシーで1時間半ぐらい走ってようやく到着したこのローマ遺跡、日本からきた役員にはあまり興味がわかなかったようで、いささかガックリ。なお、この1988年のAlger再訪では奇妙な感覚をもった。というのは、市内を歩いていると、どこか人々の表情が暗い。70年代にはすごく明るい表情であったし、異邦人である自分にどことなく注目する視線を感じたが、この時はまったく無関心のように感じた。また、レストランに入って、クスクス料理やスープ(ショルバ)を注文したが、味が随分おちたなと感じた。特にクスクスの味はひどかった。おそらく原料の小麦は輸入しているものを使っているのだろうが、質が悪くなっている。後から考えると、当時はまさにテロが荒れ狂う暗黒の10年の前夜だったのだ。というわけで、カントリー・リスクの判断の甘さからせっかく成立させたこの融資案件は、その後とんでもない状況の中に入っていった。特に1990年以降、相次いでアルジェリアからイスラーム原理主義派によるテロや虐殺の報道が伝わってくる。国内は内戦状態の様相。あんなに平和そうにみえたアルジェリアの人々が、こんなテロを起こすなんて信じられない、という思いであった。当然、この債券を購入していただいた日本の機関投資家も浮足立ち、融資自体、国際的な債務不履行交渉のテーブル(パリ・クラブ)に上った。しかし、満期の1995年に奇跡的に全額返済してくれた。


 前置きが長くなったが、こうした個人的体験もあり、現在、フランス文学を研究する立場に身をおいているのだから、アルジェリアのことを文学を通じて考えてみる良い機会だと感じた。つまり、そこに若い時代アルジェリアと関わった自分の心象風景を見いだせるのではないかと思ったのである。また、当時は表面的にしか理解できていなかったであろうアルジェリアの人々の意識の深層をより知ることができるのではと考えた。こうした発想は、しかし、文学研究をする動機としてはかなり邪道にちがいない。自分の欲望のために研究するような形になっているからだ。勿論、論文の中では、そうした自分のことについては一切触れてはいないが。


 当初、話題性もある若い作家カメル・ダウド(1971-)から研究を始めた。アルベール・カミュのL’Étrangerを(殺された)アラブ人の視点で反転させたMeursault, contre-enquêteは、優れた構想力の下に書かれた作品である。それで卒論に相当する論文を書いて、大学院修士課程に入ることができた。しかし、その後の研究テーマを引き続きカメル・ダウドとするか迷った。アルジェリア独立後の1971年生まれで、作家活動は2010年代以降であるこの若い作家には、いささか満足できないところがあった。もっと、アルジェリア独立後の現代史を幅広く体現する作家はいないのか。候補はすぐに見つかった。存命している現地人作家の中で、ラシド・ブージェドラほど、最適なフランス語表現作家はいないとわかった。と同時に、この作家について書かれた(フランス語の)論文の数の膨大さに圧倒された。ほとんどの論点が既に議論されつくしている。修士論文はフランス語で書かねばならないので、既存の論文で言及されていないテーマを見つけることができるか不安だった。


 ラシド・ブージェドラは、私がアルジェリアに滞在していた時代(1974-1977)にちょうど、海外での亡命生活から帰国を許され、アルジェリア政府が進めるアラビア化(arabisation)運動にかかわろうとしていた時期にあった。彼は、若くしてFLNのアルジェリア独立闘争に参加したが、西欧のイデオロギー(社会主義・共産主義)の影響を受けていたため、独立後のFLN内の権力闘争(特に1965年のブーメディエンによる軍事クーデタ以降)でパージを受け、迫害されてフランスに亡命。そこで、1969年処女作La Répudiationを発表。同作品は、その迫害体験をベースにしたオートフィクションだが、彼は自ら体験した拷問によってもたらされた幻覚状態(hallucination)を逆手にとって、主人公に過去の記憶~独立前のイスラーム社会、特に家族の物語~を紡がせている。暴力的かつエロティックな語り口で、その内容もイスラーム社会の内実(家父長社会、女性蔑視、大家族の雑居生活の中での近親相姦、小児愛、幼少期の「血の洗礼」など)を暴露させるスキャンダラスなものである。


 こうしたアルジェリア現地人の家族の物語は、カミュなどの植民者作家の文学ではほとんど描かれていない部分である。私も70年代のアルジェリア滞在中、現地人の暮らしぶりについては外から眺めるしかなく、実体はよくわからなかったが、Saïdaという都市に駐在していたとき、二度ほど、現地の人の家に招かれたことがあった。一つは、現地事務所に所長秘書としてきてもらっている娘さん(当時、私と同年齢でファウジアという名前だった)の家だった(私一人が招かれた)。彼女の父はLa Répudiationに出てくる現地人大富豪の家長Si Zoubirとは比べようがないが、Saïdaではそこそこの名士だった。穏やかな口調で話すインテリのように感じた。また、La Répudiationでは主人公の母Maは夫から完全に人格を無視された描かれ方をしているが、ファウジアの家ではそんな男尊女卑の雰囲気はなかった。また、別の機会では、アルジェリア側の若いプロジェクト・マネージャーの家に、日本側の工事所長とともに招かれた。ここで目を見張ったのは、地方都市では普段外ではムスリム女性(既婚者)はヴェールを被っており、決して素顔をみることはできないが、家の中では当然、素顔のままである。その彫りの深い目鼻立ち、野性味を帯びた美しさ、豊満な・・・(これ以上述べるのはLes Mille et Une Nuitsの世界になるのでやめておく)。ムスリムの人たちが妻の姿を他人には見せまいとする理由が何となくわかったような気がした。


 さて、このLa Répudiationは、その内容のスキャンダラスさに加え、物語の構造がプルースト的である点にまず気づかされる。つまり、一人称の匿名の主人公が幻覚状態の中で語る記憶の物語であり、主人公の名前(作者と同名のRachid)は途中で数回、間接的な形でしか出てこない。物語の流れは、時系列が入り組んで読者自身がモンタージュしていかねばならない。一方、文体面では、オノマトペや連続する名詞句の多用など、ルイ・フェルディナン・セリーヌの影響が多分にみられる。そして、結末はカミュのL’Étrangerと同じよう独房の中の主人公の心理状態の描写で終わる。さらにもう一つの大きな特徴は、アルジェリア人主人公に記憶(特に「家族の物語」)を語らせる触媒的存在として、アルジェリアにとって「他者(l’autre)」であるフランス人女性パートナー(Céline)を登場させていることである。Célineは、独立後のアルジェリア国家建設に共鳴して単身この国にやってきたCoopéranteである。その素性についての詳しい説明はなく、また自分の意見も表明せず、ただ主人公の聞き役に徹している(時には肉体を交えながら)。彼女のアルジェリア理解はカミュやジードなどのフランス文学から得られた紋切り型の知識でしかなく、アラビア語も理解できない。主人公の幻覚状態が悪化する中で、やがてフランスに帰ってしまう。いずれにせよ、本作品で作家はアルジェリア社会の知られざる現実を、他者であるフランス人に向かって吐き出しているかのようだ。アルジェリアのフランス語表現作家という、いわば自分の本来のものではない言語を用いて創作活動を行う作家が「アルジェリア性l’argérianité」と「他者性l’altérité」とのはざまを彷徨っている存在であることを強く感じさせる作品でもある。


 さて、前述のごとく、海外ではブージェドラに関する論文の数は膨大で、中でもこの処女作La Répudiationは、あらゆる角度から分析が行われている。そのため、新しい論点でフランス語による論文を書くには、本作品を何か他の作品と結びつけることが必要だと考えた。実際、既にLa Répudiationに後続するブージェドラ自身の作品群との比較研究や、他の国のフランス語表現作家(例えば、ミラン・クンデラなど)との比較研究などの事例がある。私が考えたのは、このデビュー作La Répudiationと、それから四半世紀後に出版された、つまり暗黒の十年に書かれた彼の作品群(1997年のLa Vie à l’endroitとそれに先行する二つのエッセー:1992年のFIS de la haineと1995年の書簡体形式をとるLettres algériennes)との間の架橋である。そこには、ある共通点を感じたからである。つまり、作家ブージェドラの創作活動は常に<死の脅威>の切迫感の中にある。そして、その状況をむしろ糧にして文学的昇華に結び付けているという点である。La Répudiationについては、迫害体験による幻覚状態を逆利用した過去の記憶の物語であることを述べたが、暗黒の10年と呼ばれる1990年代の作品群においても、彼は常に原理主義者たちからテロの標的にされたため、地下生活や、変装をしての外出、頻繁なる生活の場所の変更、銃や自殺用の青酸カリの携帯など、窮屈で凄まじい日常を強いられることになる(<死の脅威>という点では、この時代の作品群の方がより顕著である)。ここではテロへの恐怖感(peur de terrorisme)を原因とする過去の記憶の蘇り、エロティシズムへの傾斜、自ら暴力への衝動、体調の変調などが描かれる。このように、時期は異なるがこれらの作品群の間には、もっぱら政治的暴力が引き起こす<死の脅威>と、その中での文学的昇華(sublimation)というテーマの共通性がみられるのである。また、もう一つの点は、La Vie à l’endroitにもデビュー作と同様、主人公(最初からRacという名前で登場)に寄り添うフランス人女性パートナー(Flo)が登場する。しかし、La Répudiationにおける受動的なCélineとは異なり、Floは筋金入りのアルジェリア独立支持者で、反対する親を振り切り、単身で独立前のAlgerにやってきた。最近の歴史研究では、アルジェリア独立前夜のこうした独立に共鳴して実際にFLNに協力するためにやってきたヨーロッパ出身の若者たちが少なからず存在したことがわかっている。彼らは、pied-rougeと呼ばれており、名称からしても左翼系の若者たちが中心である(これに対し、Célineの場合は、フランスとアルジェリア間で1962年末に結ばれたの経済文化協力協定にもとづいてやってきたcoopéranteなので、若干政治色は弱まり、区別してpied-roseと呼ばれるグループのようだ)。こうして、Floはアルジェリア人主人公Racに対して積極的な人生のサポートを行うのである。彼女はアラビア語を学び、アルジェリア独立後もAlgerにとどまり、病院に勤務する。


 なお、La Vie à l’endroitは、テロが席巻する90年代にブージェドラが直面していた切迫した現実の様相をかなりフィクションの中に流し込んでいるのだが、一方で時間・空間の設定あるいは登場人物たちの描き方は曖昧である。本作品の物語は、1995年の三つの特定日(5 月26日、6 月26日、7 月26日)と、アルジェリアの 3 つの都市(Alger、Constantine、Bône)で展開される。各章は、おおむね物語の主人公たちが過ごした日付と場所を示しているのは確かである。ただし、必ずしも厳密に標題の日付と都市に物語を限定しているわけではない。つまり、これらの標題は具体性があるようにみえるが曖昧なのである。登場人物についても、物語の三人の主人公たち(Rac、Floに加え、サッカーの花形プレーヤーYamahaという人物が登場する)はいずれも仮名であり、匿名性(l’anonymat)が本作品の特徴となっている。Racが外出する際に強いられる変装(déguisement)も、具体的な個性の消滅という効果をもっている。こうしたファジーな枠組みの採用によって作者は、来る日も来る日も、またあらゆる場において、相も変らぬ残酷さで繰り返されるイスラーム原理主義者たちのテロリズムにより、毎日が似通っていて、恐怖が果てしなく続いている状況を表現しているように見える。登場人物の匿名性については、作者が明確な個人の物語を描こうとしているのではなく、匿名性の効果として、同じテロの脅威にさらされたアルジェリア国民、さらには世界中の人々すべてが直面している危機を描こうとしているように思われる。つまり、この匿名性は登場人物たちを非人格化する一方、彼らにそれ以上のクオリティ、言い換えれば象徴性をあたえる技巧でもあると解釈できる。このような点で、この物語の構造は、カミュのLa Pesteを彷彿とさせる。というのも、両作品とも社会全体に覆いかぶさる桎梏(疫病とテロリズム)とその中における人々の連帯というテーマを扱っている。La Vie à l’endroitの冒頭のシーンは、Algerをベースとするサッカーチームがアルジェリア杯で優勝し、群衆が歓喜につつまれて、夜間(20時以降)外出禁止令にも拘わらず雨降る市街に繰り出す様子が描かれている。これは長引く外出禁止令、イスラーム原理主義者たちによるテロリズムへの群衆の自発的反発であり、大きな共通の歓喜の前にはいかなるテロリストも出る幕がない。この無名の「群衆」の行動がおのずと人々の「連帯」を象徴している。また、時間設定の曖昧さも似ている(La Pesteでも195X年の出来事と、ぼやかしている)。さらに、空間設定の曖昧さについてもしかりである。La Pesteはアルジェリア第二の都市Oranを舞台としているのだが、なんとも醜い都市として描かれ、よく読むと舞台がOranである必然性も薄いことがわかる(筆者は、Saïdaに駐在していた頃、週末を過ごすためによくOranまで出て行ったが、Algerと較べ開放的でスペイン風の景観が美しいこの都市を、なぜカミュは魅力のない場所として描いたのか~疫病発生の地として描く必要性からか~当時、理解に苦しんだ。)



 こうして、修論でテーマとして選んだラシド・ブージェドラの作品群は、奇しくも私自身の70年代のアルジェリア滞在体験と、80年代末から90年代半ばにかけての2回目のアルジェリアとの関わりにそれとなく重なるものとなった。


 このように、私は、アルジェリア文学研究を通じて過去の自分の姿を思い出す、逆にそのためにアルジェリア文学を読んでいるような感がある。文学研究者に求められるであろう、「文学のための文学」という研究姿勢からかなり外れているのではないかと思う。しかし、アルジェリアの記憶があるからこそ、アルジェリア文学を読むのが楽しいというのが正直なところである。


 修論を執筆する過程で読んだブージェドラのLettres algériennes(1995)という書簡体エッセーの中に、暗黒の10年のはるか以前の1973年9月にイスラーム原理主義者により暗殺された初の事例であるジャン・セナックという詩人の話が出てくる(Lettre 10)。カミュの友人であり、ブージェドラも親交をもったpied-noirの同性愛者であるが、彼が殺されたのはAlger市内のrue Elysée Reclusという袋小路になっている短い通りに立つアパルトマンの地下室である。このエリゼ・ルクリュ(和訳すると「隠者の極楽浄土」という素敵な意味になる。実際はフランスの有名な地理学者の名前)という語の響きが、何となく気にかかったのだが、だいぶたってからあることを思い出した。それは、私がAlgerにいたとき住んでいた通りの名前だった。つまり、ジャン・セナックは、私がAlgerに住み始めた1974年秋のちょうど1年前に同じ通りで殺害されていたのである。20メートルもない短い通りだったと記憶しているので、彼が住んでいたところも当然私の視野に入っていたと思う。現在の地図で確認すると、既に通りの名前はアラブ風に変わっている。(因みに、その通りを出たところがAlger市内の大通りの一つBoulevard Mohamed Vなのだが、この通りは独立前にはアルジェリアで客死した作曲家サン・サーンスの名前が付けられていた。)


 修論で扱ったLa Vie à l’endroitの舞台の一つとなるConstantineはアルジェリア第三の都市であり、高い台地の上に発展し周囲は深い谷底になっているきわめて稀な形状をしている。古代ローマ帝国の支配下にあった時(当時Cirtaと呼ばれていた)から、自然の要塞として数々の戦火を潜り抜けてきた。1830年に開始されたフランス植民地化政策に最後まで抵抗した都市としても知られ、1848年にようやく制圧されるが、谷底に流れるルンメル川は、大量の現地人の死体で埋まったと言われる。アルジェリア滞在の最後の思い出にと、一人で地方都市を回った中にこの都市がある。サハラ砂漠のGhardaïaという町から夜、空路で向かったのであるが、10人乗りぐらいのプロペラ機で、数時間砂漠の上を飛んだ。機体は大きく揺れたが、配給された毛布に包まってサンドイッチのようなものを食べながら、ずっと窓から外を眺めていた(といってもほとんど漆黒の闇であったが)。機内では緊張してほとんど寝れなかったと思う。ちょっとしたサンテグジュペリの『夜間飛行(Vol de nuit)』の気分であった。そして、まだ明けやらぬ朝の飛行場の滑走路に降り立った。どのようにしてConstantineの市内に入ったか覚えていないが、とにかく早朝で、町はどこも閉まっていた。仕方なく、しばらくあてどもなく市内を彷徨った。険しい谷底がいたるところに広がっていた。しかし、ゴミが大量に投棄されているのか、汚らしいという印象が残っている。


 修論で取り上げた作品ではないが、ブージェドラの比較的最近の作品であるPrintemps(2013)を読んでみた。題名が示すとおり、「アラブの春」に触発された作品である。この中で、アスリートの女主人公Teldjは、いろいろなトラウマを抱えて生きている。一つは、幼少期に受けたレイプ(実際にあったかは不明確であるが)であり、そのため彼女はレスビアンとなっている。もう一つはEl Asnam地震だという。この作品には、この地震の被害の様子が繰り返し描かれている。実はEl Asnamは、アルジェリア独立戦争が始まる直前の1954年にも大地震に見舞われ、そして四半世紀たった1980年に再び被害にあっている。この80年の地震の方が被害がより甚大で、現地に滞在していた日本人(技術者)にも犠牲者が出たことで知られている。実は、前述のごとく、私自身も、El Asnam市内の倒壊したホテルに一時滞在していたことがある。1974年の暮れから1975年の前半にかけてであるので、地震から約6年ほど前のことである。運が悪ければ、私もこの世にはいなかったことであろう。


 これも修論とは関係ないが、今、ブージェドラの第3作目の小説Topographie idéale pour une agression caractérisée (1975、未邦訳だが、『まぎれもない攻撃にとって理想的な地形』とでも訳せようか)を読み出したところだ。ブージェドラの作品としては異色のパリに出てきたアルジェリア移民の話である。1枚の小さな紙片に書かれたインストラクションを頼りに、地下鉄構内を段ボール製の壊れかかったスーツケースを引きずりながら彷徨う男。この移民はフランス語が読めず、地下鉄内の様々な表示が理解できない。目的地までは、幾つかの線を乗り換えなければならないようだ。まだ読んでいるのは初めの部分だけだが、地下鉄内の様々な風景が描写されている。特に、初めてパリの地下鉄に足を踏み入れた者は、誰しもが目もくらむような壁という壁に貼られたけばけばしい商業広告の連なり。そのメッセージ内容は、奇抜で旅行者を圧倒する。この移民は、パリの地下鉄網の中を彷徨いつづけ、やがてラシストたちに目をつけられ、目的地に到着する前に殺されてしまうらしい。ピリオドがほとんど打たれていない文体なので、日本語に訳すのは難事である。私は、この移民が地下鉄構内を右往左往する姿に、私が初めてパリにきたときの自分を見るようだ。特に、シャトレー駅の乗り換えは、複雑で長かったことを今でも鮮明に覚えている。壁の巨大なサイズの広告にも圧倒された。これがフランスの文化・エスプリであると、たっぷり頭に叩き込まれたように感じた。


 このように、いちいちブージェドラ作品(の本筋というよりは些末な部分)に自分の過去が反応してしまう。しばらくこの状態は続きそうである。


 今後、ブージェドラの全作品を2年ぐらいかけて精読してみるつもりである(とは言っても、幾つかの作品はまだ入手できていない)。日本では和訳されたのは二冊のみで、また日本語の研究書の類もほとんど存在しない状態での文学研究はなかなか困難な道のりに違いない。自分で丹念に読書ノートを作っていくしかない。なお、多少アラビア語の心得もあるので、ブージェドラのアラビア語で執筆した作品も覗いてみたいと考えている。

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