カトリーヌ・ポッジの『日記』Journal 1913-1934は1987年にÉditions Ramsayから出版されたが、その後2005年、それより小型の版が、注を若干数追加するかたちでÉditions Phébusから出版された。双方とも、序文はLawrence Josephが書き、 校訂や注釈はJean Paulhanの孫娘Claire Paulhanが担当している。Lawrence Josephは大部のポッジ論Catherine Pozzi, une robe couleur du temps(Éditions de la Différence, 1988)を上梓しただけでなく、ポッジの中編小説Agnès (Éditions de La Différence, 2002)の序文も書いているし、さらには、ポッジとヴァレリーの書簡集La flamme et la cendre (Gallimard, 2006)の校訂者でもある。また、Lawrence JosephとClaire Paulhanはポッジの詩集Très haut amour(Gallimard, 2002)の共同の校訂者でもあり注釈者でもある。つまり、ポッジに関する研究を進めるたびに、必ずと言っていいほど2人の名前に出会う。疑いようもなく、彼らの地道で献身的な仕事のおかげで、長年ヴァレリーの影に隠れていたポッジに光が当てられ、現在ポッジ再読の機運がすこしずつ沸き上がりつつある。
しかし、というか、この2人の責任を問うのはおそらく筋違いなのだとは思うが、Journal 1913-1934は読んでいてストレスがたまる本である。それはポッジの文体が読みづらいからというのではなく、Éditions RamsayとÉditions Phébus、さらにLa flamme et la cendreに一部収録されているJournal 1913-1934の間に微妙な表記の違いがあるにもかかわらず、それに関して一切の言及がないからというのでもなく、端的に、ところどころ、重要だと思われる箇所が欠落しているからという理由に由来するところが大きい。たとえば、ヴァレリーが1920年9月15日から10月6日まで、ドルドーニュ県のポッジ家の領地La Grauletに滞在したことは周知の事実であるが、この間のポッジの『日記』はほんの数ページしか収録されていないのである。この時期に関することはLa flamme et la cendreに収録されたポッジとヴァレリーの手紙からも、ヴァレリーのCahiersからもたいしたことはわからないので、せめてポッジの『日記』で確認したいというのは、読者としてはごく当然の要求のように思われるのだが、思いは叶わない。ところがMireille Diaz-Florianの書いたCatherine Pozzi – La vocation à la nuit (Éditions Aden, 2008)には、「ヴァレリーはかつてルコント・ド・リールが泊まった友だち用の寝室をデッサンする。彼はそこでラ・フォンテーヌの『ヴィーナスとアドニス』の序文を執筆する。まさにこの寝室で、9月25日、2人の関係がもっとも強烈な瞬間のひとつを迎える。そしてこの瞬間をカトリーヌ・ポッジは10月29日の『日記』で、控えめながらエロチシズムを添えた夜の場面(une scène nocturne discrètement érotisée)として描く」(p.153)と書かれているではないか! これを読んだら、どんな読者でも、『日記』の1920年9月25日と10月29日の部分を調べてみたくなるのではないだろうか。しかし残念なことに、どちらの版の『日記』にも該当する部分はなにもない。幸い、Mireille Diaz-Florianが10月29日の『日記』の一部とおぼしきところを10行ほど引用しているので、かろうじてその「場面」が想像できるといった程度である。もちろんこうしたストレスは、フランス国立図書館で閲覧制限の網を潜り抜けて原本なりマイクロフィルム(la cote 6709)を確認することさえできれば、あっさりと解消する問題なのではあろう。しかし、プライバシー保護の意図があったにしても、『日記』の編纂にもっと工夫のしようがあったのではないかと思われる箇所が少なくないように思われるてしかたがない。
しかし、ポッジの『日記』にはこうした検閲の手を幸いにも逃れた素晴らしい叙述が随所にみられる。そうした中から、ポッジがヴァレリーの長女アガートを初めて見た場面の記述を読んでみたい。これはヴァレリーが1923年5月22、23、25日の3日間、ヴィユー・コロンビエ座で「19世紀における純粋詩」のテーマで連続講演をしたときの話である。ポッジは3日間とも会場に足を運び、ヴァレリーの講演ぶりを注意深く観察している。しかしそのポッジの目に、23日にはヴァレリーの妻ジャンニーとアガートの姿が、25日にはジャンニーと次男フランソワの姿が飛び込んでくる。観客席の前方に陣取って、講演者を見つめる「家族」の姿にポッジは動揺する。以下は24日に書かれた『日記』の一部である。
彼の娘を見た。彼女はかわいらしいし、彼と生き写しだ。彼の妻を見た。いや、あの女が妻かどうかはわからない。いや、あの女に間違いない、彼女は全然私の気に入らない。まあ、そんなことどうでもいい……。かつて私は彼にこんなことを言ったことがあった、「私があなたの奥さんと知り合いにならないように用心した方がいいわよ、そして彼女が私の気に入らないようにした方がいいわよ、さもないと、私はもう二度とあなたのものにはならないわ」、と。だが突然、私は理解する──まるで内面の盲目を手術されたかのように──、今日、愛に終止符を打つのは彼の妻ではなく、彼の娘なのだということを。 私は彼を見る、そして彼とそっくりの娘を。彼女は私以上に彼の近くにいる。私は彼にとってはとるに足りない幻影であり、夢であり、快楽なのだ。あの小娘、彼女は彼なのだ。彼女の鼻は微妙な曲線を描いていて、笑ったとき、なにかしら悪魔的な表情が浮かぶ……。 なんとまあ理解しがたいことだろう! それを見るということは、まるで閉じられた一つの世界を観察するようなものだ。私は一人の存在がどれほどまで家族で、複数であるのかを感じる。彼は彼のところで終わらない。彼は彼の子どもの中でもまた彼なのだ。そして私はそうした世界の外側にいる。 私たちの不倫は突然、笑うべきもの、喜劇、過ちのように思われてくる。私たちの動きが私たちをひとつに結びつけることはないだろう。 この出会いの明白にして予見不能な結果として、私の中に昔の愛が起き上がり、涙を流す。それはもう常軌を逸している。 彼の娘はかわいらしい。その金髪にはなんともいえず優雅で宿命的なものがある。彼女はポーのリイジアだ、ロッセッティが愛した女だ、あるいはクノップフがデッサンで描いた女だ……。女の子の繊細な鼻の線、なんともいえず優雅なまでに悪魔的で、純粋で曲がったものが、そこにある。あなたの若さがそこにある、あなたの若い男らしい優雅さがそこにある。なんという驚き! なんという感動! なんという混乱! 私はこの点を理解する、女の子の顔が私の中の死んでいた欲望をかきたてるのだということを。私は渇いていた、ああ、渇いていた、あなたの娘の姿ゆえに、あなたの25歳に渇いていた。
このとき、1906年3月7日生まれのアガートは17歳だった。17歳当時のアガートの写真を見たことがないので、彼女の「悪魔」ぶりを確認することはできないが、「ポーのリイジア」や「ロッセッティが愛した女」、さらには「クノップフがデッサンで描いた女」にも比されたアガートがどれほどポッジを驚かせたかは、ポッジが自分とヴァレリーの「愛に終止符を打つのは」、妻のジャンニーではなく、娘のアガートであろうという認識にいたったということだけである程度の察しがつくというものである。ヴァレリーは1922年9月7日のアンドレ・ルベイ宛の手紙で、ポッジのことを「彼女は愛恐怖症だ」(elle a la phobie del’amour)と揶揄していたし、ポッジはポッジで、同年9月28日の『日記』で、「50歳なのに疲労と皺で65歳」に見えるヴァレリーの肉体を醜いと断じ、「辛抱強く、はっきりと、彼の涙にも皮肉にも才能にさえも屈せずに拒否した」と書いていた。そのポッジが、アガートの「悪魔」的な美を通して、25歳のヴァレリーを想起しつつ、死んでいた欲望が自分の中で蘇生するのを感じるというのである。ここにポッジが熱心に勉強していた遺伝学や仏教の輪廻思想の影響を見ることができるのだろうか。それはともかく、ポッジはヴァレリーの「家族」を目の前に見せつけられ、自分たち2人だけの知的共同体の夢がもろくも潰えてしまったことを確認せざるを得ない。
その後、ポッジは表立ってアガートに言及することはなくなり、ジャンニーならびに彼女の姉ポール・ゴビヤールに攻撃の矛先を向けていく。2人を「これら倦怠の泉のような人間」、あるいは「これら2つの虚無」(1924年6月15日)、さらに「これら2つのぼろきれ」(1926年2月25日)と呼んで憚らないポッジは1925年11月、ジャンニーにヴァレリーとの関係を明かしてしまう。その辺の事情は1926年3月以降の『日記』で語られるが、ここは、1922年3月末から4月にかけての記述(ヴァレリーの最初のラ・コリネット訪問に関する)とともに、『日記』全体のクライマックスとなっている。