日本と違って欧米では翻訳者の地位はかなり低く、本の表紙に訳者名が記されることすらない。そのせいか、フランスで翻訳者から詩人・小説家・劇作家に転じて名を成した人は極端に少ない。詩人のサン・ジョン・ペルス、小説家のヴァレリー・ラルボーくらいか。
そうした中で最大の例外というべきは19世紀の詩人・小説家ジェラール・ド・ネルヴァルである。というのもネルヴァルは若くしてゲーテ『ファウスト』を翻訳出版して文名を確立し、ロマン主義の文壇に一定の地位を築いた人物だからである。ただ、演劇雑誌を自費で発行して失敗して以後はジャーナリズムやゴーストライターの仕事に追われた。
ところが、数度の狂気の発作に見舞われたことから逆に夢と幻想と、そして己の狂気を冷静に記述する怜悧な理性とからなる独自の文学をつくりあげ、一度は忘れられたが、20世紀に入るやプルーストやシュルレアリストに高く評価され、いまやユゴー、ラマルティーヌ、ヴィニー、ミュッセというロマン派四大詩人を凌ぐほど評価の高い文学者となっている。
そんな逆説的な人生を生きたネルヴァルの決定的伝記と言えるのがクロード・ピショワ&ミシェル・ブリックス『ネルヴァル伝』(田口亜紀・辻川慶子・畑浩一郎訳 水声社 8000円+税)である。ではこの伝記のどこが決定版で、画期的なのか?
①作品内の自伝的要素を実証的な資料(とりわけ新発見資料)によって徹底検証し、フィクションと実生活を峻別する。
②この姿勢を担保するために広範な資料探索を再度行う。とりわけ19世紀前半に泡沫のように現れては消えた新聞雑誌を虱潰しに検証し、ネルヴァルがイニシャルや変名で寄稿したと思われる記事を発掘し、本当にネルヴァルの筆になるか否かを同定する。
③多数残されている友人たちの証言を突き合わせ、矛盾を暴き、最も真実に近い証言のみを残したうえで、それをネルヴァル自身の証言と照合する。
④フランスの良き伝統である公文書保管を最大限に活用し、不在証明を行う。
ようするに、一人の文学者の伝記に法実証主義に近い方法を持ち込んだわけだが、ではその結果、読むに耐えない事実の羅列となったかというと、決してそんなことはない。むしろ、従来の「ネルヴァル神話」の解体により新しいネルヴァル像が浮かび上がってきたと言える。
その典型は、狂気の病状が進行し、精神科医ブランシュ博士の病院で治療を受けていたネルヴァルが傑作短編「シルヴィ」や最高の詩「エル・デスティチャド」などを書き上げていたという謎が解明される箇所である。
「1853年11月の二週間を、1841年にジェラールがくぐり抜け、デュメニル・ド・グラモンα草稿の六篇のソネを書いた数週間と比較すると(中略)、ネルヴァルの最も美しい詩である二篇『エル・デスディチャド』と『アルテミス』が狂気と天才の産物であり、狂気によって再度解放された天才の産物であると断言できるだろう」
つまりネルヴァルは狂気にもかかわらず傑作を残したというよりも、狂気を一つの方法として傑作を書き上げたのであり、しかも十分に自覚的であったのだ。それは狂気の治療法に関するブランシュ博士とネルヴァルの考えの相違によくあらわれている。
「ブランシュは、ものと書くことによって治療が進むなどということは信じておらず、ジェラールが自分の病気を題材に文学作品を制作することなどあってはならないと考えていた。ネルヴァルは、反対に『オーレリア』こそ、ブランシュ医師の医療と看護の評判を高めることになるのだと言っている」
著者たちはブランシュ医師、父親、デュマなどとネルヴァルの関係にマゾヒズムを認めている。
「ネルヴァルは父親に対して自分を監督してもらうことを求めるのだが、いざそれがかなうと、それに耐えられなくなってしまう。そして服従の念と、感謝の気持ち、自分の意見をはっきり言いたい、そして自らの道を進みたいという願いの間で、引き裂かれてしまうのだ」
ネルヴァルは多くの友人に恵まれたという点で幸せな男だった。大旅行家となれたのも政府の中枢に入った友人が援助を惜しまなかったためだし、ブランシュ博士の病院に長期入院できたのも友人・知人たちが費用を工面してくれたおかげである。
いまもなお多くの研究者をひきつけているネルヴァルの魅力が伝わってくる優れた評伝である。
『ネルヴァル伝』 クロード・ピショワ/ミシェル・ブリックス(著) 田口亜紀/辻川慶子/畑浩一郎(訳) 判型:A5判上製 頁数:528頁+別丁16頁 定価:8000円+税 ISBN:978-4-8010-0727-7 C0098 |