哲学者ジャック・ランシエール(1940-)による、詩人フィリップ・ベック(1962-)を論じた著作の邦訳である。ランシエールとは、ベックとは誰か、そして本書の成り立ちや構成、概要については、あとがきを兼ねた「訳者ノート」に端正にまとまっているので、ここでは繰り返さない。以下では、短いながらも多岐にわたる論点が散りばめられたこの詩論のうち、いくつかのトピックに焦点を当てることで書評に代えたい。なお特に注記のない引用ページ数は本書のもの。
「はしがき」に続く「超越論的な屠牛儀式(ブフォニア)についてのノート」は、「自然は生起するのだということは理解されている」(5頁)という一文から始められる。言うまでもなく、マラルメ「音楽と文芸」(1894年)の一節を承けたものである。自然はすでにそこに、場所を占めてしまっており、もはや何もつけ加えようがない。芸術家に可能なのはひとえに事物の諸関係を捉えることだ[1]――マラルメであれば、広がる髪や金色の縁、スパンコールといった断片的なものを拾い集め、再配列することで、「姿を消した太陽」(5頁)たるイデーを組み上げる詩作が目指されていた(なおこのことをランシエールはすでに、『マラルメ――セイレーンの政治学』(1996年)で主題化している)。ここに付された訳注で触れられている通り、マラルメは「詩の危機」(1897年)において、諸言語の複数性=不完全性を「詩句versが哲学的に贖う」(163頁)という見立てを提示していた。イデーを再構築する彼の詩作術は、この見立ての再定式化である。
本書を通じて問題となっている「以後のポエジーpoésie d'après」を、ランシエールはマラルメにおいてこのように見出す。つまりすでに理想が実現されてしまった後、あるいはかつての理想が失われてしまった後、芸術には何が可能か、という問いである。この問いはマラルメのみならず、思想史上さまざまなしかたで語られてきた。例えばシラーである。「素朴文学と情感文学」(1795-96年。なおここで「文学」の原語はDichtungだが、これは「ポエジーpoésie」と仏訳される)において、シラーは自然と調和的に結びついたかつての詩人、いわば「自然である」素朴詩人に、自然から切り離された近代の情感的詩人を対置する。そこで近代的詩人の課題は、その反省的知性によって描写対象を理想へと高めることにある。この問題系はシュレーゲル兄弟やノヴァーリスらドイツ・ロマン主義に引き継がれ、そして現代、ベックによって引き受けられる、というのがランシエールの見立てである(25-26頁)。
ベックはどのようなしかたでそれを引き受けているのか。ランシエールはこう述べる。「わたしたちが読んだ言葉がなにを話しているのかを言う言葉を発明すること、それらについてひとが書いた言葉を発明すること、わたしたちを作った言葉を発明すること、それが自然以後のポエジーの仕事である」(12頁)。言い換えれば詩を「みずからの諸状態の乗法のなかに」置くこと、すなわち語の収縮や拡張、先行作品の解釈やパロディ化の作業としての詩作である(14頁)。フリードリヒ・シュレーゲルの言う「ポエジーのポエジーPoesie der Poesie」が想起されてよい。具体的には例えば、既存の名詞を動詞や副詞として練り直すことであり、廃れたジャンルである「教訓的ポエジー」に新たな意味と価値を与えることであり、また例えば、グリム童話に材を取りつつそれらを再構築した、『民謡(ポピュラー・ソング)』(2007年)における実践である。第2章にあたる「ポエジーから詩へ」はもっぱらこの実践の分析に捧げられており、本書の主部をなしている。
「訳者ノート」で述べられている通り、本書タイトルの「畝sillon」に賭けられているのがまさにこの実践である。この語は「先行する詩人たちによる詩行」を指し示し、「その先行する既存の畝にのっとって、さらにいまここで畝を掘るような所作が、ベックのそれ」なのだ(182-183頁)。「詩句vers」のもとになったラテン語versusもまた「畝」を意味すること、ならびに、sillonは「レコードの溝も指し示す」(186頁)こと――音楽的にして機械技術的な溝――を念頭に置くと、哲学者の手になる本書のいわば詩的な語彙運用の妙も味わいやすくなるだろう。例えば「超越論的な屠牛儀式についてのノート」冒頭からすでに、sillonをめぐる多義性が、自然natureに対する二種類の反意語によって示唆されている。すなわち第一に人工物や機械技術、第二に「文化=耕作culture」が言及されているのだ。「ポンプ」や「斧」、「琴」をはじめ、本書にたびたび登場する様々な比喩形象を、ベックの詩句においてのみならず、このsillonの多義性との関係において捉えることもできるだろう。
いま私は哲学と詩を対比的に語ったが、これはコロックでの発表に基づく「ポエジーから詩へ」で、ランシエールがベックに見出す対立でもある(ベックは詩人にして哲学教師である)。曰く、詩とは「制作するfaire」ものであり、また「制作することによって教える」ものである一方、哲学は制作せず「言述(ディスクール)」にとどまる(28頁)。ベックの詩、とりわけ『教訓的ポエジー』のそれは、自ら制作することについて語りつつ、制作する勇気を読者に教え示すところに固有の価値がある。他方、ランシエールのこうした主張に対し、ベックは「ディスカッション」(当該コロックでランシエールの発表後に行われたもの)で、自分はそのような対立を言った覚えはない、とすぐさま反論する。結局、ランシエールは自らの関心がベックの意図の「誇張」にあったと認めつつ、後にその主張を正当化する「証拠」を注で付している(93、159頁)。
哲学と詩の問題が両者にとって重要であることを示すやりとりである。この問題は本書において、ヘーゲルをいかに考えるか、という問いを介して、先述の「以後のポエジー」に送り返される。すなわちヘーゲルの議論では、ポエジーは歴史的展開の末に己の限界に到達し、その役割は哲学に取って代わられることになる(97頁)。ベックはその単純化――自覚的な単純化である、と注釈しているところに、哲学教師ベックの良きエートスが見いだされよう。「意識の経験の学」の著者ヘーゲル!――に抗し、むしろ先述のシラー「素朴文学と情感文学」へと遡行して、彼とともに「思考そのものが詩的であり詩的でありつづけるだろう教訓詩」の可能性を探求する。そしてランシエールはと言えば、こうしたベックの態度に呼応して、最後に収められた「フィリップ・ベックとの対話」の末尾において、「ポスト・ポエジー」(そのようなものがあるとすれば)と「以後のポエジー」とをそれぞれヘーゲルとシラーに即して対比させる。すなわちヘーゲル的芸術史観における終焉後のポエジー、真理認識や生のモデルの提示といった他の領域にもはや関わることがなく、ただのポエジーでしかないようなポエジーが、「ポスト」の名にふさわしいだろう。他方、「以後のポエジー」とは「思考そのものにとって大切な言述のモード」(153頁)、思考することと不即不離のポエジーであり、そのモデルは反省的知性によって詩作するシラーの情感的詩人に求められるだろう。すなわちヘーゲル以後においてなお、またヘーゲル以後であることを自覚しつつなお、かつての理想的自然という「世界の失われた夢」と、「言語の思考への一致」という究極的かつ不可能な理想とのあいだで、「ヘーゲルの到来のときを遅らせなければならなかったかのように行動するポエジー」(154頁)を、ランシエールはベックに見て取っているのだ。
本書の翻訳上の特色として、帯でも強調されるように、singulierを「単独的」と訳出し、さらに「かけがえのない」とルビを振っているところにある。その対義語prosaïque──こちらは「ありきたり」とルビが振られている──のもとになるprose(散文)もまた、本書の主要トピックのひとつをなす。これについて付言しておこう。ランシエールの見るところ、ベックの詩的使命の中心にあるのは散文の問題である。というのは、フローベール的な散文実践──ありきたりな事物をありきたりに、すなわち散文的なものを散文によって、いわばポエジーから二重に隔てられたしかたで記述しつつ、それによってこそポエジーを実現しようとするプロジェクト──の批判的継承あるいは超克として、ベックは詩を制作しているからである。そのための技法が、例えば句またぎによる詩句の脱臼であり、造語による異化作用というわけだ。
こうしたフローベールの誇張的とも取れる前景化は、『沈黙の言葉』(1998年)などで彼を文学史上の特権的人物として取り上げ続けてきたランシエールならではのエクリチュールと言えるだろう。シラーやマラルメ含め、このように文学史を絶えず参照しつつもなお、いやむしろその絶えざる参照を通じてこそ、ランシエールは失われたポエジーの再建者としての、この詩人の単独性を切り出そうとしていると総括できる。なおベックは「ディスカッション」の末尾で、自身にとってのフローベールの重要性に概ね同意しつつ、句またぎの解釈をめぐってランシエールに違和を表明している(118頁以下)。ディスカッションが続けば、さらなる議論の発展もありえただろう。
本書ではほかにも、ジョゼフ・ジャコトによる知的解放の教育論、『SHOAH』のクロード・ランズマンなど、ランシエールがさまざまな著作で取り上げてきた人物やトピックがことあるごとに顔を出す(ジャコトについては『無知な教師』(1987年)を、ランズマンについては例えば『イメージの運命』(2003年)を参照されたい)。またアラン・バディウやジャン=リュック・ナンシーら、コロックに参加した哲学者への言及もあり、哲学と詩をめぐるフランスの知的状況の一断面を生き生きと伝えるドキュメントになっている。
ランシエールは2020年代に入ってからも旺盛な著述活動を続けているが、邦訳出版はと言えば、一時に比べてその点数は落ち着いているように思われる。その状況を『文学の政治』(2007年)の翻訳(森本淳生訳、水声社、2023年)と並んで賦活するという意味でも、本書の刊行は意義深いと言えるだろう。
[1] 松室三郎・菅野昭正・清水徹・阿部良雄・渡辺守章編『マラルメ全集(2) ディヴァガシオン』筑摩書房、1989年、526頁。