ボードレールが「香り、色彩、音が答えあう」「コレスポンダンス」を歌って以来、19世紀後半のいわゆる象徴主義的思潮においては、文学・美学・音楽といった諸芸術の関係がたえず関心の対象となってきた。日本でも近年、日仏会館で「芸術照応の魅惑」をめぐるシンポジウムが数度にわたって開催されてきたが[1]、既発表の論攷に図版をふんだんに盛りこんで昨年2024年に刊行されたジャン=ニコラ・イルーズの『マラルメ 諸芸術のあわい』(Jean-Nicolas Illouz, Mallarmé entre les arts, Presses universitaires de Rennes, 2024)は、マラルメを中心とするこうした芸術照応の諸相を再考する意欲的な研究書である。
序論(「プレリュード」)によれば、本書の目的は次の三つである。
第一に、19世紀後半の「表象の危機」の時代にあって、マラルメと友人・知人の芸術家たち──マネ、ベルト・モリゾ、モネ、ラファエッリ、ルドン、ドガ、ルノワール、ヴュイヤール、ホイッスラー、ゴーギャンなど──との「出会い」rencontre、そして彼らが行った共同作業を再検証すること。進歩や前衛意識から自由であったマラルメは自分の生きている時代が「現在」を欠いた「空位時代」であると考えたが、そうした「同時代性」の観点から諸芸術をとりむすび、個々のイスム──例えば、印象主義と象徴主義──にコミットするのではなく、むしろそこに欠けているものを見ることで、それらを同じ「現代芸術」の多様な表れとして捉えなおすことができた。
こうしたマラルメの思想は──第二の論点であるが──ワーグナーの総合芸術の批判として現れる。ワーグナーが表象の体制を結局は維持し、音楽と頂点とする諸芸術の文字通りの総合を試みたのに対して、暗示を事とするマラルメの詩学は、諸芸術の固有性をむしろ保存しつつ、「冒瀆的な解体」démontage impieを行って芸術の根拠が「無」rienであることを暴く。これは宗教的、政治的には、ワーグナーの民族宗教に対して、より反省的、批判的な宗教観を対置することを意味しているが、芸術に話を戻せば、マラルメが諸芸術を取り結ぶさいに持ち出す詩=書物は、その言語的否定性によって、諸芸術との差異を保持しつつそれらを内包するものとなることができる──すなわち、詩はイメージであるが絵具も色彩もないイメージである、詩は音楽であるが楽器のない沈黙の音楽である、ダンスは書く道具のない詩である等々。イルーズはこうした「差異を保持した同一性」による関係を、マラルメやデリダを参照しつつ「純潔な婚姻」hymen virginalと名づけているが、これは本書でくり返し用いられる鍵概念となるだろう(p. 12, 20, 30, 32, 85, 225-226, etc.)。
第三の目的は、以上のようなマラルメの活動の「効果」を20世紀以降に探ることである。ドビュッシーの『半獣神の午後への前奏曲』(1894)はブーレーズによれば現代音楽の画期となる作品だったが、『半獣神の午後』は1912年にはニジンスキーの振り付けでバレエ化されている。また、詩人没後の1914年にはじめて刊行された『賽の一振り』はブーレーズにインスピレーションを与えるとともに、マルセル・ブロータスや、21世紀に入るとミハリス・ピヒラーによって新たに作品化されることになる。イルーズはこうした「ポスト=モダン的」変形によってマラルメ作品の何が失われたのかを見極めようとするのである。
本書を支える問題関心には、近年研究は深められている「アーティスト・ブック」livre d’artisteへの興味がある。極北を目指すかに見えるマラルメの詩は、挿絵と独特の関係を結ぶものでもあった。イルーズによれば、それは次の11点に集約されるという(p. 85-86)。
1.フィリップ・ビュルティによる『ソネとエッチング』(1869)に掲載予定だった「-yxのソネ」は、おそらくマラルメが自作の視覚的情景について初めて真剣に考える機会となった。
2. 挿絵入り個人編集雑誌『最新流行』(1874)。
3. マネの挿絵によるマラルメ訳『大鴉』(1875)。
4. マネの挿絵による『半獣神の午後』(1876)。
5. マネの挿絵による『エドガー・ポー詩集』(1888/1889)。
6. ラファエッリの挿絵による『パリの人々』(1889)。
7. 未刊におわった挿絵付き散文集『漆塗りの抽斗』Tiroir de laque。
8. ホイッスラー協力による宛名4行詩詩集『郵便の気晴らし』Récréations postalesの計画。
9. 『パージュ』(1891)のルノワールによる口絵(美のアレゴリー)、『詩と散文』(1893)のホイッスラーの口絵、1887年および1899年の『詩集』のフェリシアン・ロップスによる口絵。
10. 雑誌掲載の詩篇に添えられた挿絵(「垂れこむ雲に沈黙し」のクノップフなど)。
11. アンブロワーズ・ヴォラールの企画による『エロディアード』(ヴュイヤール)および『賽の一振り』(ルドン)の挿絵版。
このようにして見ると、詩人がいかに画家との協働作業に意欲的であったかが分かるが、ここで問題になるのが、文学と絵画の関係である。第Ⅰ章や第Ⅲ章などで詳述されているように、マラルメの詩と挿絵の関係は単純な同一性に基づくものではない。詩が挿絵の、あるいは挿絵が詩のたんなる説明や表象になることはないのである。一般に、象徴主義期以降の挿絵は本文の場面をそのまま描くというよりは、直接的な関係はむしろ不分明なものであることが多いようにも思われる(個人的にはメーテルランク『温室』(1889)に付せられたジョルジュ・ミンヌの挿絵が思い出される)。イルーズはこうした不即不離とでも呼ぶべき文学と絵画の関係を上記の「婚姻」概念で捉えようとしている。
本書の方法論上の特徴としては、ここまで紹介してきたことからも明らかなように、芸術家同士の「創造的友情」(p. 87, 150)を重視することが挙げられるだろう。象徴資本の多寡や承認をめぐる闘争を基本概念とするブルデュー的な「芸術場」の理論が決して説明しえぬような次元を、イルーズはマラルメを起点とする「創造的友情」の関係性によって明らかにしようとするのである。
多数の図版を掲げる本書は、その繊細にして精緻な読解と相俟って、読者を豊かな読書へと導くだろう。以下では無粋であることを承知のうえで、フランス語を読まない日本の読者のために、各章の内容をやや詳しく要約してみた。
[1] 「芸術照応の魅惑──近代パリにおける文学、美術、音楽の交差」(2015年11月7日)、「芸術照応の魅惑Ⅱ──両大戦間期のパリ:シュルレアリスム、黒人芸術、大衆文化」(2016年10月29日-30日)、「芸術照応の魅惑Ⅲ──ヴァレリーにおける詩と芸術」(2017年10月21日)、「芸術照応の魅惑Ⅳ──プルースト 文学と諸芸術」(2020年5月15日-16日)、「芸術照応の魅惑Ⅴ──ボードレール 詩と芸術」(2022年6月18日-19日)。
Jean-Nicolas Illouz Mallarmé entre les arts Presses universitaires de Rennes, 2024, 256 p. ISBN : 9782753595392 |
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第Ⅰ章では、マラルメの『半獣神の午後』と、マネ、ドビュッシー、ゴーギャン、ニジンスキーといった芸術家との「婚姻」が具体的に読み解かれていく。
イルーズは1865年にコペーらによって上演が断れ、1875年には『現代高踏派詩集』に掲載が拒否されたこの詩篇の歴史をたどり、『半獣神の午後』が当時の表象の危機と呼応するかのように、徐々に具体的な現実性を失い、夢想=フィクションに変貌する様子を確認する。1876年に刊行されたマネの挿絵入り版はいわゆる「アーティスト・ブック」のはしりとして、書物の形式と内容といった二分法を宙吊りにするものだった。そこに見られるのは詩人と画家の独特な対話であり、テクストとイメージの両義的な関係である。実際、マネはマラルメの詩を「絵画化する」illustrerのではなく、(ほとんど音楽的な意味で)「伴奏する」accompagnerのであり、たしかに詩が挿絵を産み出すように見えるとはいえ、挿絵自体もひとつの詩となっていく。詩と絵画がそれぞれ自己の固有性から離れて他と関係を結びつつも、決してワーグナーの総合芸術のように諸芸術がひとつの「全体」を作ることはなく、両者の差異と己内部の差異を保持しつつ結びつくのである。
火曜会にも顔を出していたドビュッシーはマラルメの詩篇を歌曲にしたほか、『半獣神の午後』に前奏曲(1894)を書いたが、彼もまた諸芸術の「婚姻」を実践した、とイルーズは論じる。詩篇の音楽化はギルの弟子でもあるロンバルディによって提案されていたが、マラルメは強く拒絶した。ドビュッシーはそのことを知っていたのか、詩篇を直接曲にすることはせず、やがて展開される詩の内容がいわば潜在的に含まれるような前奏曲を作って、詩と音楽との間の「宙吊り」となった対話を実践してみせた。伝統的韻律から離反したマラルメの詩に呼応するかのようなドビュッシーの音楽は、自由なリズムと調性からの離脱という点で、現代音楽の起点(ブーレーズ)となるものでもあった。
著者がとりあげる第三の「婚姻」は1893年にゴーギャンがマラルメに送った「半獣神」の浅浮彫りの木像である。マオリ神話の姿になったニンフと半獣神は、詩篇のもつ原初的な次元やマラルメが抱いていた自然神話と呼応しているだろう。
最後に論じられるのは、ニジンスキーの振り付けによる1912年の上演である。伝統的に音楽とダンスは相互に密接に関連するように作られるが、エジプト絵画に由来するとされるニジンスキーの平面的な振り付けは、正確に指示されてはいるものの、音楽の中で夢遊病のようにたゆたい、キュビスム的な鋭角の動きは、ドビュッシーの流動的な音楽と著しい対照をなす。音楽とダンスはここでもあらたな「婚姻」をなしている。
ひとことで言うなら、マラルメの『半獣神の午後』は現代芸術作品の「範型」であり、時代を越えて後々にいたるまで自由な生起のうちに新たな作品を生み出してきたのである。
第Ⅱ章では「マラルメと印象派の画家たち」が論じられる。マラルメが印象派をとりあげた美術批評文は、ボードレール、ゾラ、ユイスマンスなどの伝統的な形態に類するものもあるが、ポーの『大鴉』の翻訳や『半獣神の午後』の挿絵をマネに描かせて「アーティスト・ブック」を創造したり、批評文集『ディヴァガシオン』が示すとおり、根本的な「危機」における詩と美術を捉えようとしたりと、伝統的な美術批評と大きく異なる点も多い。
マラルメの批評文「印象派の画家たちとエドゥアール・マネ」(1876)は印象派絵画の真の主題が「日中の自然光」であると喝破する。伝統的な遠近法から離れて、印象派の画家は網膜がはじめて対象を捉えたかのようにイメージを絵画に定着させる。これは形而上学的に言えば、天上から降り注ぐ垂直的な光が野外に満ちた水平的な光にとって代わられ、聖なるものが日常の中に探られるようになったことを意味している。
マラルメは同じことをベルト・モリゾについても指摘しているが、それはそのまま詩にも当てはめることができる。散文詩「白い睡蓮」は、まず水辺を船で行くというテーマ自体(波の揺れ、印象へと解体する人物像)が──そこには窃視する半獣神やレダと白鳥の神話の反映も見られはするが──印象派的である。さらに文体的にも、語りの順序と文体のリズムが対象を模倣している点で──ゆったりとしたオールと波のリズムから、静かな細かい揺れへの変化が文体のリズムで表現される等々──言語自体を革新してもいる。すなわち、印象派があたかもはじめて見るかのようなイメージを提示したように、マラルメもまた通常の統辞を崩すことによって、読者にあたかもこれまでも読んだことがなかったかのように文章を読むように促す。そのことによってマラルメと印象派は、ヴァレリーが指摘するように、芸術をその源泉にまで立ち返らせ、その原理そのものを露わにするような作品を提示したのだった。とはいえ、印象派の絵画が純粋な視覚性によるのに対して、マラルメの詩はより抽象的な言語作用に依拠するという違いはもちろんある。イルーズはそこに、詩と絵画の「対話」、各々がその特性を保持し分離しつつ行う「対話」を見るのである。
こうした美学上・詩学上の変革ないし危機は、時代が民主主義的なものになったことと相関している。もはやアカデミーは趣味の守護者や決定者ではなく、大衆こそが(少なくとも潜在的には)芸術を自分の目で見て、その価値を判断する主体となった。しかし、このことはまだ十分には実現してはいない。大衆が芸術の主体となるのは来るべき未来の祝祭として垣間見られているだけであり、彼らはいまだ自己の偉大さに無意識なままである。むしろ支配するのは芸術をも商品化する貨幣経済にすぎない。とはいえ、ジャック・ランシエールが言うように、マラルメはその芸術活動を通じて、こうした来るべき未来の祝祭をはっきりと見定めてもいたのである。
第Ⅲ章では、写実主義の画家・版画家のジャン=フランソワ・ラファエッリとマラルメの交流の分析を通して、象徴と現実の関係が論じられている。1889年、ラファエッリが市井の人々の様々な職業を描いた版画にエドモン・ゴンクール、ドーデ、ゾラ、モーパッサン、ブールジェ、ユイスマンス、ミルボーなどが詩文を添えた書物『パリの人々』Types de Parisに、マラルメもまた2篇のソネと5篇の4行詩を寄せた。このうち「靴直し」と「匂い草を売る女」が「下世話の唄」Chansons basのタイトルのもとドマン版の詩集に収録されることになる。「プチ・パリ」と呼ばれる廉価な挿絵入り都市紹介の伝統をひきつぎつつも、芸術的価値のある挿絵を備えた愛書家用の高価な書物が刊行されるようになってきた当時の状況もふまえ、いわばその両者の間に位置する中間的ジャンルがこの『パリの人物さまざま』だった。その意味で、マラルメがドガをはじめとする画家たちと当時計画していた『漆塗りの抽斗』Tiroir de laqueのような「アーティスト・ブック」とは一線を画するものだとイルーズは考える。
『パリの人々』におけるラファエッリの絵とマラルメの詩の関係はいかなるものだったか。当時すでに象徴派の領袖とみなされていたマラルメに詩文の依頼をしたのはラファエッリの方である。一般に文章に挿絵がつく場合でも、逆に絵に文章が添えられる場合でも、両者の間には内容的な同一性が前提される。『パリの人々』の場合、まずラファエッリの版画が完成され、それにマラルメが詩を書いたのだが、マラルメは絵のエクフラシスを行うことをせず、画家が示した職業の人物のみをふまえて、それを「アレゴリー」的な小話へと「変換」し、さらにそれを「下世話な唄」と名づけてみせた(筑摩書房版『マラルメ全集』で「下世話」と訳されているbasは、①描かれる対象の卑俗さ、②行商人などが売り歩いた暦書Almanachに見られる挿絵入り歌謡というジャンルの低俗性、③ヴェルレーヌやラフォルグ的なささやくように「小声」basで唱えられる詩歌といった含意があるという)。イルーズが本書で度々強調する「諸芸術の婚姻」hymen des artsとは、このように詩と絵画はそれぞれの独立性を保ちつつ結び合わされることを指している。
ラフェエッリとマラルメの差異は、画家が「写実主義」réalismeを方法としたのに対して、詩人の方は言語の内在的な「制作力」le pouvoir de réalisation(p. 69)に賭けていた点に求められるという。マラルメはミメーシスを放棄し、ゴーティエやバンヴィルに倣ったアクロバティックな複雑な形式の詩へと現実の対象を変換し、言語的構築物に世界の事物と同じような一貫性と存在を与えようとする。だがそうすることで詩は反対に現実の事物とは別の次元を開き、現実の「重力を変質させ」(「テオドール・ド・バンヴィル」)、自分が「無」rienにすぎないことを示しもする。現実とは同語反復的なものであるが、詩とは「アレゴリー的」なもの、自己であると同時に他なるものであり、現実的であると同時にイデー的であるといった矛盾を内包するものである。とはいえ──と著者はさらに論を進める──「下世話な唄」においては詩のイデアル化は詩の題材──例えば、匂い草=ラヴェンダーはトイレの芳香剤になる──によって阻害されてもいる。
以上のような写実主義の画家とアレゴリー的な詩人との対立の問題は、第三共和政フランス社会における詩人の位置という、ベルトラン・マルシャルやジャック・ランシエールによって研究されてきたテーマへと導く。イルーズは「葛藤」Conflitや「対決」Confrontationといったテクストを改めて取り上げながら、労働者に未来の祝祭のいまだ無自覚な主体を見るとともに、資本主義下における賃労働とは異なる「労働」=「ストライキ」を行うことで経済関係のうちに「〈象徴的なるもの〉の空虚な場」を穿つ詩人の営みを見据えるマラルメの姿を確認している。
第Ⅳ章で取り上げられるのはオディロン・ルドンである。ルドンとマラルメはじつは『さかしま』の主人公デ・ゼッサントが偏愛する対象としてすでにフィクションのなかで出会っていたのだが、現実においてはルドンがリトグラフ集『ゴヤ礼賛』をマラルメに送ったのが友情の始まりだった。その後、ふたりは作品を送りあうようになり、交流を深めていく。イルーズはこれを受けて、ブルデュー的な芸術場の論理よりもこうした友情こそが時には作品創造にとって重要なのだ、と指摘している。
ふたりの関係が具体的な作品計画に結実したのは、アンブロワーズ・ヴォラールが企画した挿絵入り『賽の一振り』においてである。これは結局、マラルメが亡くなったために実現しなかったが、ルドンが制作したと言われる4枚のリトグラフのうち3点が知られている。いずれも一見したところでは『賽の一振り』のテクストとの関係は明瞭ではない。マラルメは、テクストが白地に黒の文字になるのとは逆に、挿絵は黒い背景に白いデッサンが浮き出るようにするアイデアを持っていたというが、ルドンがそれに従ったように見えるのは「子供と虹」のリトグラフだけである。「羽根飾りの女性」のリトグラフは、文中の「領主のもののような目も眩むばかりの明るい羽根飾りは/不可視の額に/輝いたのち/セイレーンのように身をよじる/暗く可愛い/立ち姿に/影を落とす」に対応するらしい。
だが著者が最も着目するのは、ふたりの芸術家がイメージに与えた新しい動的な体制である。マラルメはすでに1898年1月の「小説の写真挿絵についてのアンケート」に「私は賛成です──いかなる挿絵もないことに」Je suis pour — aucune illustrationと両義的な答えを与えたうえで、小説が映画のように展開する様子を夢想してみせていたし(「書物」volumeはvolumen(巻物)である)、『賽の一振り』の「所見」でもイデーがいわばプリズムによって様々に分解され現れてくる様子を考察していた。
ルドンの場合は、無意識に由来する想像力によるイメージの変形と合成である。この点を踏まえて3つめのリトグラフ「ヘニン帽の女」を見ると、女の頭にある動物上の存在は無意識の象徴、女は知性の象徴、ふたつのサイコロはさらに抽象的な図形、左端のほとんど見えない子供の顔(これはルドンの息子アリを思わせる)は抑圧されたものを示すと読める、とイルーズは論じる。翻って「子供と虹」に見える子供の方は、「そのささやかな雄々しき理性によって/大樽のなかに/閉じこめられ自制している/不安にみち/罪をあがなう思春期の/もの言わぬ若者だ」に対応するという。著者はここに8歳でなくなったマラルメの息子アナトールの影を見るが、6ヶ月で息子ジャンを亡くしたルドンもまた『賽の一振り』に秘められたこの無意識的な結び目に気づきえたにちがいないと考えるのである。
第Ⅴ章で詳細に分析されるのは、ドガが1895年12月16日にヴィルジュスト街40番地のジュリー・マネのアパルトマンで撮影した写真「アーギュスト・ルノワールとステファヌ・マラルメ」である。 イルーズはこの有名な写真のうちに印象主義(ルノワール)と象徴主義(マラルメ)のせめぎ合いと、それが写真という新しい第三の視線(撮影するドガ)によって眼差される様子を見る。それは例えば「室内」の捉え方にまず現れているという。写実主義的な印象主義からすれば、室内の描写はそこに住まう者の習慣や性格を表現するものでなければならないが、象徴主義的な「閉域」への嗜好はむしろ、ローマ街で行われた火曜会がそうであったように、「魂のより本質的なドラマが演じられる」場に向けられたものだった。
シャッターを押すだけで撮影可能な「コダック」のカメラが誕生したのは1888年。しかしドガはいくつかの石油ランプによる照明と15分ものポーズをモデルたちに強いる伝統的な撮影を行った。それは写真とはいえ、印象派的なスナップ写真ではなく、黒と白との芸術的な構成を意識した作品──「偽りfauxの芸術」:faux-tographe──であった。
そうした芸術的「配置」dispositioは、何よりも部屋に向かい合わせで設えられた二枚の鏡の無限の効果に見られるが、その他にも、モデルのポーズがいくつかの先行作品の「引用」であることにも現れている(たとえば、親指を出してポケットに手を入れているは、マネによるマラルメの肖像にすでに見られたポーズである)。
写真に現れているとされる印象主義と象徴主義の関係に戻れば、イルーズは、マラルメの視線がルノワールに向けられているのは印象主義に欠けている知的側面を示しており、またルノワールが前方を見据えているのは写真の挑戦に絵画=印象主義が譲歩しないことを示していると読みこむ。ドガはと言えば、印象派展に属しながらも、外光による制作をほとんど行わず、より「暗示的」で「抽象的」なモノタイプ──描画を紙に転写するこの技法では写真のように複製が出来ない──による風景画を制作したり、件の写真では「中心紋」の構図を用いたり、複数のネガから踊り子のパステル画を作ったりして印象主義とは一線を画した点で、象徴主義と交錯する部分があった。それはたんに写真嫌いということではなく、こうした作業を通じて、象徴主義に特徴的な表現媒体(詩の場合は言語)への反省や表現そのものの物質的条件への批判的省察が見られるからである。
こうしてドガの写真は、印象主義=生命と象徴主義=イデーのきわめて近代的な対立を提示しつつ、そこにさらに反省的な襞をつけ加えて、一方ではイデーの物質的な基盤を暴露するとともに他方で世俗的な聖性としての芸術の場を指し示しもする。そしてそうした配置を可能にするものこそ、不可視のドガが身をおいているはずの不在の第三項なのであった。
第Ⅵ章ではエドゥアール・ヴュイヤールの絵画創作を支える「理論」がマラルメの詩学を参照しつつ探られる。ヴュイヤールは「半獣神の午後」を暗唱するなどマラルメの熱心な読者で火曜会にも参加したことがあり、彼が協力していた雑誌『ルヴュ・ブランシュ』にはマラルメも「文芸と音楽」、「ある主題による変奏曲」、「文芸における神秘」を寄稿した。詩人の別荘があったヴァルヴァンの近くには『ルヴュ・ブランシュ』を編集していたタデとミシアのナタンソン夫妻の別荘もあり、そこで直接交流することもあったという(ヴュイヤールはヴァルヴァンの別荘も描いている)。
本書の主題である「アーティスト・ブック」の観点から注目すべきは、『賽の一振り』をめぐるルドンとの共作と対をなす、『エロディアード』をめぐるマラルメとヴュイヤールの共作がアンブロワーズ・ヴォラールによって計画されていたことである。残念ながらこの企画は詩人の死のために完成することはなかった。
理論的な側面に関しては、モーリス・ドニの絵画とは「ある秩序のもとに集められた色彩によって覆われた平らな表面」とする理論の延長線上に、ヴュイヤールもまた「色彩のシステム」として絵画を制作していたことが指摘され、それがマラルメ的な「〈イデー〉すなわち諸関係の間のリズム」としての「音楽」と比較されている。
詩人と画家の親しさは主題面では「室内」への着目に現れているだろう。「-yxのソネ」や『イジチュール』の部屋、マネが『大鴉』の挿絵として描いた空虚な椅子、家具調度を主題とする三幅対のソネ等々──それに「エコー」するように、ヴュイヤールも多くの「室内」を絵に仕立てた。彼の絵画に見られるのは、出発点であるオランダ絵画(シャルダン、フェルメール)や自然主義の影響だけでなく、メーテルリンクらが強調した「日常のなかの悲劇」を感じさせる雰囲気の室内である。「発話主体の消滅」を主張するマラルメが語とそれらが配置される空白に意識的であったように、ヴュイヤールも、イルーズによれば、「事物そのものではなく、事物とそれらを絵画的に結び合わせる間隔の間にある雰囲気l’air」、前フロイト的な無意識の現前を感じさせる雰囲気を表現した(ただし、ナビ派で最も世俗的であったヴュイヤールには超越を表現する意図はなかったという)。
『失われた時を求めて』の画家エルスチールのモデルのひとりと言われるヴュイヤールの絵画は、ベルクソン的な時間概念を共有している。すなわちそこでは、現在のイマージュと過去=記憶のイマージュは同じ実質からなる。そのため、動きのなかにある日常の事物がある瞬間において捉えられながらも、それがなにか遠い不動の記憶の地に連なっているような印象が見る者は受けるのである。
第Ⅶ章では、1888年に始まる詩人マラルメと画家ホイッスラーの「創造的な友情」の諸相を具体的に追い、その意義が明らかにされている。
交錯する作品(Œuvres croisées)。美術評論家テオドール・デュレの仲立ちでクロード・モネの昼食会で始めた出会った二人はすぐに意気投合する。マラルメはホイッスラーのうちに敬愛するエドガー・ポーの姿を認めたし、ホイッスラーはマラルメを「もうひとりの私」だと感じた。ボードレールがこの画家を評価していたから、出会う前からマラルメは画家の作品を知ってもいた。マラルメにとってホイッスラーは印象派に属するというよりも、俗世間と対立する「芸術のための芸術」を体現する存在である。ふたりは作品制作を通じて交流を深める。マラルメはホイッスラーがボードレールの言う現代的な「美」(かりそめにして永遠な美)を論じたTen O’Clock(十時の講演)の翻訳(1888)を刊行するが、表紙には画家が署名の代わりに用いた蝶があしらわれていた。共同作業は1890年には雑誌The Whirlwind(つむじ風)をめぐっても行われる。マラルメがホイッスラーを読みこんだソネット「短信」を書いた一方、画家の方はリトグラフを制作してマラルメを楽しませるとともに、イギリスの読者にこの詩人を紹介する労をとった。1892年には、実現しなかったものの、マラルメの郵便宛名書き詩集の表紙に画家が「切手」のデッサンを描くという計画もあった。同じ頃、ホイッスラーがマラルメを描いた肖像(『詩と散文』の口絵リトグラフ)は詩人の本質をよく表したものとして名高いが、マラルメは『ディヴァガシオン』に収められることになる文章で画家の肖像を書いてこれに答えた。
「精緻にして根源的な危機」(Une « exquise crise, fondamentale »)。理論的な側面から考えると、両者は19世紀後半の美学的・詩学的な危機を共有していた。それは一方で、ますます繊細となっていく芸術的印象に関わると同時に、文学や絵画の「表象」の基礎を問い直すことをも内実としていた。ホイッスラーは写実主義の画家クールベの弟子として出発するが、見えるものしか示さないという原則を堅持しながらも、ジャポニズムの影響などもあり、対象の輪郭が模糊とした色彩の「ハーモニー」へと絵画を還元していく。これは印象派的とも呼びうるが、ホイッスラーは見たものをすぐに描くのではなく、記憶の中に沈殿させた後で描いたから、この点で印象派とは異なっている。対象を語やリズムの「振動のうちに消去させる」暗示の詩学を実践したマラルメは、ホイッスラーのこうした「音楽的」側面を的確に見抜いていた。
「影のうちにわざと」(« Dans une ombre exprès »)。描かれる対象が消えていくこうしたホイッスラーの美学は何よりも「夜」の表現のうちに表れている。《青と銀のノクターン:バタシー・リーチ》などはマラルメの哲学的コント「イジチュール」の夜に、濃霧信号が闇に光る《青と銀のノクターン:クレモーンの光》は鏡に七重星がきらめく「yxのソネ」と比較しうるだろう。問題は画家にとっては可視的なものの限界であり、詩人にとっては言語の表現可能性の限界である。これを端的に示すのが、ホイスッラーに恐らくは目配せしながらマラルメが述べた、至るところにいると共にどこにもいない「白い蝶」のイメージとなるだろう。
第Ⅷ章では、ポール・ゴーギャンとマラルメの交流と美学概念の親近性が論じられている。1891年1月にシャルル・モーリスの仲介でゴーギャンと知り合ったマラルメは、画家がタヒチ滞在の費用獲得を目して企画した売り立てのためにオクラーヴ・ミルボーに記事を書くよう頼むなど、終始好意的だった。91年3月25日、カフェ・ヴォルテールでゴーギャンのために行われた祝宴では、「遠方へ、そして自分自身へと」向かう画家を言祝ぐこともした。ゴーギャンも火曜会に顔を出すとともに、鴉を頭にのせ半獣神の耳をしたマラルメの肖像──あたかも彼自身の自画像のような肖像──をエッチングに描いたり、タヒチ滞在中にはマオリ神話風の木彫りの半獣神と女神の像を制作してマラルメに送ったりした。マラルメはその御礼として『半獣神の午後』を贈呈している。
イルーズが強調するのは、タヒチ時代の絵に認められる「メランコリー」である。ポリネシアはすでに植民地化によって変質しており、それはもはや「楽園」ではない。1897年の《ネヴァーモア》にはマネが描いたポーの鴉にも似たイメージが描き込まれており、前述の木彫りの女神は憂鬱の表情を示してもいた。
マラルメとゴーギャンはその表現においては対照的だが「芸術に関する同じ宗教」を共有している。出発点となるのはミメーシスの解体である。自然主義と印象主義から出発したゴーギャンはマラルメをいわば「触媒」として、無意識的かつ象徴的な「脳髄」の操作によって見ることを学び、ドニの言う「ある秩序のもとに集められた色彩によって覆われた平らな表面」に比せられるクロワゾニスムの絵画に到達した。ゴーギャン自身がこうした自作を音楽に喩えているが、これは詩を語相互の内的反映と定義したマラルメの立場に通底するものである。イルーズはこのことを、大作《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》の分析を通して例証してみせる。この絵の上部左右は画布がめくれるように描かれており、そこにはタイトルと画家の署名が見られる。つまり絵の背後に何かそれが示すべき「彼岸」があるわけでなく、あるのはただ絵画のみである。そうした徹底的な内在の場から「イデー」を表すこと、ゴーギャンとマラルメの企図はいずれもそこにあった。
第Ⅸ章では、かつてマラルメがワーグナーの「挑戦」を受けて立ったように、マラルメの「挑戦」を受けて立ち、そこからインスピレーションを受けたピエール・ブーレーズの作品が分析されている。
1955年に作曲が始められたソナタ第3番は、「星座」Constellationないしその遡行形の「星座=鏡像」Constellation-miroirを中心(3つ目)として、前半に「アンチフォニ−」と「トロープ」、後半に「ストローフ」と「セカンス」を置く、5つの「フォルマン」formant(≒楽章)からなるが、前半2つと後半2つの順序は任意なので、合計8通りの演奏順序がある。すなわち、構造的には同一だが、演奏者の選択によって多様な相貌を帯びる曲である。イルーズは、中心となるフォルマン「星座」がマラルメの『賽の一振り』のテーマそのものであること、この詩篇で中心にくる見開きページの最初と最後の言葉がComme siであり、その配置があたかも鏡像のようなかたちを示していること、また種々の断片の間の様々な演奏順序を矢印で示すフォルマン「星座」の楽譜が『賽の一振り』を思わせる散乱した相貌を持っていること、そしてフォルマンや要素の様々な結びつきが許容されることは、詩行による配列を廃した『賽の一振り』や紙葉が様々な順序で朗唱される「書物」の試みに比較しうること、「フォルマン」という語が象徴するソナタの「生成過程にある構造」(ティエリ・ロジェ)が、『賽の一振り』の「すこしずつ作られる総和」compte total en formationと呼応しているように見えることなどを指摘している。
ブーレーズの制御された偶然は、ジョン・ケージの偶然性の音楽の対極にあるが、これはマラルメの二面性に呼応するとも言えるだろう。ブーレーズのマラルメは「星座」のマラルメ、万物の間の関係としての音楽のマラルメである。ケージにとってのマラルメはこれに対して、星座図を攪乱する偶然の詩人としてのマラルメなのである。
マラルメの「ベルギーの友人たちの思い出」の一句にタイトルが由来する《プリ・スローン・プリ マラルメの肖像》は、イルーズによるなら、音と意味、音楽と詩の関係──関係なき関係である「婚姻」──を、楽曲への詩の直接的な現前から、詩が消滅し構造として楽曲を統御するにいたる様々な次元で再考する試みである。第1曲「贈りもの」Donはマラルメの「詩の贈りもの」第1行に基づくが、言葉は次第に明瞭さを失い音響性のうちに消えて行く(マラルメは12音節詩句(アレクサンドラン)の音節の自由な組み合わせを語ったが、これはある意味で音楽の12音節技法の先駆けと言える)。詩篇「純潔な、生き生きとした、美しい今日の日が来て」によるつづく「即興Ⅰ」以降、言葉の解体はさらに進むが、5曲の中心をなす「即興Ⅱ」に詩篇「レースはおのずと消え去り」の「音楽豊かな虚無なる中空」creux néant musicienの語が見られるのは象徴的である。言葉は消え、詩が空虚な構造として音楽を規定するのである。その意味で、aの母音によるヴォカリーズが特徴的な「即興Ⅲ」が、aの母音を強調する詩篇「垂れこむ雲に沈黙し」(À la nue accablante tu / Basse de basalte et de laves...)をなぞっているように見えるのは示唆的である。最終第5曲はヴェルレーヌの「墓」の最終行だけを採るが、声はほとんど叫びのようになって「死」le mortの語を歌い、第1曲冒頭の和音を奏でて円環的に終結している。
ブーレーズはマラルメと同じく、信仰なき時代にいかにして「世俗的儀式」un rituel profaneを生み出せるのかを考えた。「書物」の儀式を取り仕切る者は、ブーレーズにとっては指揮者にあたるだろう。だが、マラルメが、構造のみならず、天空の星座が象徴する「意味」の高みにも視線を向けて、両者の間で微妙なバランスを取っていたのに対して、セリー音楽の場合は構造の水平性のみが強調されるきらいがある。
こうした意味と音楽の分離に対応する事態は美術で言えば意味とイメージの分離となるが、それは第Ⅹ章で分析されるマルセル・ブロータスの『賽の一振り イメージ』に顕著である。1969年にアントワープとケルンで開催された「マラルメをめぐる文学的展示」において、ブロータスはマラルメの『賽の一振り』の文字部分を黒塗りに置きかえたものを、陽極処理アルミニウム(10部)、透明なフィルム(90部)、紙(300部)で作成し展示した。マラルメにおいては区別されながらも結びついていた可読的なものle lisibleと可視的なものle visibleは分離し、両者の共約不可能性が強調されることになる。マラルメの『賽の一振り』の場合、活字は見開きのページに散乱し、読書の線条性に二次元的表面が加えられるとともに(ヴァレリー)、活字の大きさの差異によっていわば三次元的な陰影が言語に与えられており、文学空間の動的状態を実演してみせてくれる(ブランショ)。そこでは物質的なものと心的なもの、感じられるものle sensibleと意味あるものle senséは不可分であるが、それを分離するのがブロータスの『賽の一振り イメージ』である。マラルメの作品がすでに「現代的空間を無意識に発明」するものであるとすれば、ブロータスの作品は、『賽の一振り』の見ていた夢に精神分析を施し、マラルメの作品においてすでに可視的なものが可読的なもののうちに回帰していた傾向を押しすすめていくのだが、その結果として、語られるものle ditは見られるものle vu(すなわち、黒塗りのバー)のうちに隠されてしまい、禁止interditの対象となる。イルーズはこうした両者の相違をブロータスの展示の細部のうちに詳しく探っていく。マラルメは詩のうちに諸芸術が区別されつつも交わる(「婚姻」する)場を見ていたが、ブロータスにおいては、イメージ=形態、語=記号(壁や床に書かれた詩篇の文字)、音(ブロータスによる詩篇の朗読)は相互に関係なくばらばらとなる。
2008年の「マラルメをめぐる文学的展示」でミハリス・ピヒラーはブロータスの試みを新たに変奏し、黒塗りであった文字部分を切り取り、平板ではあるがひとつの「彫刻作品」に仕立てた(したがって、副題は「詩篇」でも「イメージ」でもなく「彫刻」である)。翌2009年には、この切り取り部分をもとに『賽の一振り』のピアノロールによる演奏も行われた。文字通り(ロール紙の)空虚から音楽が立ち昇る事態は、マラルメの言う「発話主体の消滅」を如実に実践するものとも言えようが、他方でマラルメに見られた意味と形而上学的の次元(「天球間の音楽」)は消えてしまうのである。
マラルメはこうしたイデアルな次元を保持しつつ、芸術に「冒瀆的な解体」démontage impieを加え、そこに「無」を見出した。ブロータスの試みも解体と呼びうるが、それが露呈させる物質性はむしろ芸術作品を商品と化す消費社会のロジックを批判的に問い直すものであった。