ヴァレリーがポッジ家の領地ラ・グローレを最初に訪れてちょうど百年目にあたる2020年の3月12日、いくつかの幸運が重なってラ・グローレを訪ねる機会を得た。
パリのモンパルナス駅からTGVに乗り、ボルドーのサン=ジャン駅で支線に乗り換え、リブルヌ(Libourne)駅で降りて、そこからベルジュラックまでSNCFのバスに乗ることになった。バスはサン=テミリオン地区のブドウ畑を横断するように走ったが、ベルジュラック駅に着いたときには、パリを出発してからほぼ5時間が過ぎていた。さまざまな解説書には、ラ・グローレはベルジュラックの郊外数キロのところに位置すると書かれている場合が多いが、ラ・グローレは正確にはベルジュラック市ではなく、ドルドーニュ川左岸のクール・ド・ピル(Cours-de-Pile)という人口が2000人に満たない小さなコミューヌに属している。
ラ・グローレに関しては、ヴァレリーが書いた「ラ・フォンテーヌの『アドニス』について」の序文の冒頭部分がとりわけよく知られている。
この『アドニス』論は、とある美しい田舎で書かれた。とても広大で、はるか遠くの方で大木や緩やかな起伏で囲まれているので、その田舎は、陽光にだけ捧げられ巨大な木々で閉じられたその広がりの果実として、もっとも奥深い平和を実らせているように思われた[1]。
1932年3月14日に亡くなったカトリーヌの母親テレーズは、カトリーヌより2歳年下の外交官として活躍していた長男のジャン(Jean Pozzi, 1884-1967)を「家の誉」として優遇し、遺言書にラ・グローレをジャンに譲り、カトリーヌにはその用益権と家の中の第1帝政様式の家具だけを譲ると記していた。テレーズの生前からこの不均等な財産分与をめぐって家族間で激しいやり取りがなされていたことはカトリーヌの『日記』からもうかがえるが、そのカトリーヌも1934年12月3日に亡くなり、ジャンがその完全な所有者となる。その後1955年9月1日、ラ・グローレは売却されることになった。そのとき公証人が作成した書類には次のような記述が見られる。
主の家、パヴィヨン、納屋ならびに使用人の住居、厩舎と車庫、庭師の家、小作人用建造物2棟、ワイン醸造所ならびに付属建造物2棟、酒蔵、タバコ置き場、鳩舎ならびに各種付属建造物、耕作地、牧場、ブドウ畑、森、庭、土地、池、総計513766平方メートル[2]。
513766平方メートルというのは、例えば東京ドームの建築面積が46755平方メートルなので、ざっとその十一倍の広さと言うことになる。現在のラ・グローレが百年前の面影をどれほど残しているのか、短時間の訪問では確認のしようがなかったが、たしかに私の目の前には、ヴァレリーが書いたような「穏やかな起伏」の広大な畑や林が広がっていた。
パヴィヨン(le pavillon)と塔
カトリーヌの父サミュエル(Samuel Pozzi, 1846-1918)はパリに生活の拠点を置きながらも、母親イネス・エスコ=メスロンの生家が所有していたラ・グローレに愛着を持ち続けていた。そんな彼は1882年3月に主だった住居部分を新築する決定をし、地元で活躍していたピエール・ジュール・ロベルティ(Pierre Jules Roberty)という建築家に建築を依頼する。ロベルティは、サミュエルの父親バンジャマン(Benjamin Pozzy, 1820-1905)が1851年にベルジュラック市内に建てた自由教会の建築にも携わっていた人物である。こうしてできあがったペリゴール風の家は「パヴィヨン」と呼ばれ、その後ポッジ家が迎える賓客を接待するために使われる。また「パヴィヨン」と同時に付属の小塔も建設された。
私たちのよく知っているヴァレリーがペンで描いたラ・グローレの寝室はまさにこの「パヴィヨン」の中の一室である。さらに、1920年9月25日、ヴァレリーとカトリーヌの関係が決定的な場面を迎えるのもこの「パヴィヨン」の中であった。カトリーヌはその時のことを1カ月以上たった10月29日の『日記』の中で仄めかしているが、9月25日の夕食の後、二人が「パヴィヨン」に行ったとき、ローレンス・ジョゼフによれば、「パヴィヨンはバラの花で飾られ暖炉の火が赤く燃えていた[3]」という。もちろん、こうしたすべてがカトリーヌの配慮であり演出であったことは言うまでもない。参考までに10月29日のカトリーヌの『日記』の一部をローレンス・ジョゼフの著書から孫引きして訳しておく。
そしてその夜、彼は彼女をすこしだけ抱擁した。だがあたかもそれは優美な動物を撫でるようなやり方だった。それに私はあんたの肉体(ton corps)の肉体を感じなかった。ただ、おお、リオナルド、あなたの上に浮かんだあの歓びの表情、あの歓びの顔、私がこれまで見たことのなかったあなたの燃えるような目! それからあなたは彼女に何も与えることはできないと言った、でもそれが、つらいこと、とってもつらいことだと言った、そして彼女に分かってほしい、どれだけそれがつらいことかと言った。 あなたは自分を取り戻した人のように出て行った[4]。
その後1928年までいくつかの危機を繰り返しながらつづいていく「カリンとポールの物語」の先行きを暗示するような一節だが、カトリーヌ特有のすばやい人称の切り替えがひときわ効果的である。残念ながら、こうした出来事の舞台となった「パヴィヨン」も隣接していた塔も現存していない。前述した1955年9月1日の公証人作成の書類に塔が明記されていないことからも推測できるように、塔はこの時点で売り物にはならないと判断されていたようである。シロアリの被害に遭い、倒壊の危険があった塔も「パヴィヨン」も新たな持ち主の手で破壊されたということである。跡地には敷石や土台の部分だけが残されていた。また往時、「パヴィヨン」とともにツタで覆われていた塔の土台の直径は2メートルにも満たないことが確認できた。きわめて細長いペンシル型の塔であったものと思われる。
造園計画
サミュエルは「パヴィヨン」や塔の建築と並行して、すでにある畑や牧場を維持しつつも、林や遊歩道や池を配した「庭園」(parc)の総合的な整備計画を構想し、すでに1881年には、その実現をベルジュラックで庭師として高名だったガブリエル・ペルドゥー(Gabriel Perdoux)に託している。ペルドゥー家はガブリエルを含め6代にわたってベルジュラックを中心に活躍した造園技師の家系であったが、ガブリエルは単なる造園技師に留まらず、種苗家としても活躍し、とりわけモクレンの収集に関してはヨーロッパの第一人者であったという[5]。ガブリエル・ペルドゥーはサミュエルの意見を取り入れながら、ラ・グローレの整備計画を立てていたようだが、その間、彼はサミュエルにパリのJardin des Plantes やJardin d’Acclimatationを見て、参考にするようにと勧めたこともあったという。こうした協議を経てでき上がったと思われるのが以下に示した整備計画図である。
計画図の上部(北)には住居や厩舎や小作人用建造物などと思われる建物が描かれているが、その南に広がる畑や林をいくつかの円を描くように拓かれた遊歩道や農道が印象的である。工事は1882年4月に開始され、1885年には一応の完成を見たが、さらにもう一本のアクセス道路(「プラタナスの道」)を作る必要などができたため工事は1888年まで続いた。
工事以前からラ・グローレにはアカシアやブナなどが植えられていたが、これらはサミュエルの厳命で手つかずのまま保存された。そして1882年5月には、2166本の小灌木、913本の針葉樹、320本の若い松、9本の毬果植物の植林作業が開始された。それらの中には、ペルドゥーが当時の流行を意識しつつ、またその色合いの美しさを考慮して選んだヒマラヤスギやジャイアントセコイアやスペインモミやヨーロッパクロマツなどの「外来種」が多く含まれていた。しかし田舎風の自生する樹木をこよなく愛したサミュエルは、とりわけヒマラヤスギを毛嫌いし、すべてのヒマラヤスギを掘り起こし、セイヨウヒイラギガシやクリに植え換えさせたという逸話が残っている。他方、芝地も整備され、バラが植えられたが、芝地からは林の切れ間を通してモンバジヤック城(Château de Monbazillac)やコンヌ川(la Conne)の渓谷が見えるように配慮されていた。また大きな菜園や果樹園も作られた。さらによどんだ沼を池に整備するためにも多大の努力が傾けられ、45人の作業員と4頭の馬、2頭の牛が使われた。池には岩や滝や橋や島が配されたというが、この池は現存していない。もちろんこうした池ばかりでなく、広大な畑や牧草地を潤すためには大量の水が必要になるが、コンヌ川から水を引くために、取水用のダムや給水塔、さらには550メートルの水路を作る必要があった。政治家としても活躍したサミュエルの功績のひとつに地元地区の灌漑施設の整備が挙げられることが多いが、ラ・グローレでの経験が生かされたのかもしれない。
ちなみに、細目は不明だが、サミュエルは経費として1883年に38000フラン、翌1884年にはさらに12000フラン支払っている[6]。なお1900年、ペルドゥーがベルジュラック地区のワイン畑の復興に寄与したことが認められてレジオン・ドヌール勲章騎士賞を受章したさいには、上院議員サミュエルの強烈な後押しがあったとも伝えられている。
プラタナス並木と《Au platane》
ラ・グローレには6つの入り口があるようだが、LA GRAULETと書かれた表札と、ANCIENNE DEMEURE POZZI B.MORAND-MONTEILと書かれた表札のかけられたレンガ造りの門柱を越えて領地に入るとすぐにプラタナスの並木道がはじまっていた。
並木道の長さも、植えられているプラタナスの本数も正確なことは分からないが、この部分は最後に工事が行われた箇所のひとつで、プラタナスの植林は1888年に行われた。
樹齢百年を超えたこの鬱蒼とした並木道をヴァレリーとカトリーヌが散歩したであろうことは想像に難くないが、しかし残念ながらというべきか、このプラタナスの並木道は『魅惑』におさめられた《Au platane》の発想源ではない。というのも、ドイツ軍の侵攻を逃れるために1918年6月11日にパリを逃れ、レンヌに向かったヴァレリーは、そこに落ち着く間もなく、パトロンのエドゥアール・ルベイの命令で、25日、ルベイがマンシュ県サン=カンタン=フージュロール(Saint-Quentin-Fougerolles)近くに所有する領地リール・マニエール(L’Isle Manière)で合流し、そこに秋まで滞在している。《Au platane》はそのリール・マニエールの広大な庭園に生えた見事なプラタナスに触発されて書かれたものと思われる。フロランス・ド・リュシーによると、《Au platane》の最初の草稿が書かれたのは1918年7月の初旬で、さっそく1918年8-9月号の『Les Trois roses』誌には10詩節の詩が掲載されている。その後、1919年末に第7状態まで推敲され、1921年1月1日号の『NRF』誌の第88号(17詩節)に掲載されたが、さらに修正の試みは続き、1922年2月から3月にかけての第8状態を経てようやく現在見られる形(18詩節)になった[7]。以上のことから、ラ・グローレのプラタナスは《Au platane》の制作には関わっていないと考えるのが妥当なように思われる。もちろん、カトリーヌと並木道を散歩しながら、ヴァレリーが制作中の詩に思いをはせたことは十分に考えられることではある。
なおこの並木道を縁取るようにしてアメリカのブドウの木が植えられた。ブドウ畑が現存しているのかどうか確認できなかったが、当初ペルドゥーはそれらのブドウの木の列をプラタナスの並木道と垂直になるように植えることを計画していた。だが、土地の傾斜や排水の問題があってかなわなかった。いずれにせよ、ブドウの収穫の時期には、サミュエルはパリからやって来て、2週間ほどラ・グローレに滞在し作業の陣頭指揮を執ったという。
現所有者のソフィー・アダン(Sophie Adam)夫人から訪問の記念にと左のようなカードをいただいた。カードの左下にいくつか紫色の染みが残っているが、間違いなくワインの染みである。いつごろ使われたのか不明だが、このカードがあれば、一日ブドウ摘みに汗を流した後で、ワインの供応にあずかることができたのだろうか。広々とした田園風景の中、大量のごちそうが並べられた大きなテーブルを囲んでワインを飲んで収穫を喜ぶ人々の歓声がなおも聞こえてきそうである。
その他
「パヴィヨン」や塔が消えたとはいえ、ラ・グローレにはまだ何棟かの住居が残っているし、農機具置き場やかつての厩舎も残っている。どれもみながっしりとした大きな建物だ。参考までに何枚か写真を示しておく。ちなみに右下の肘掛け椅子は工事中のある部屋で見つけたものである。ヴァレリーの『カイエ』に描かれた例のルコント・ド・リールが愛用したという肘掛け椅子を思い出させた。もちろん、往時のものではないだろう。
ベルジュラック市内
(1)シラノ
ベルジュラックと言えば、私たち日本人にはなんといってもエドモン・ロスタンの戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』が連想されることであろう。シラノの生い立ちは不明なところが多く、最近の研究では彼はガスコーニュ出身ではなく、実はパリ出身だと言われていたり、彼は一度もベルジュラックに来たことはないとも言われていたりするようだが、市内にはグラン・ムーラン通りの石膏造りの古いシラノ像と、そこから100メートルほどのところにあるペリシエール広場に立つ緑と茶を主体とした色で彩色された新しい像の二つがある。両方ともあたかも新しい時代の到来を予感するかのように自慢の鼻を上に向けている。サラ・ベルナールを通してロスタンと親交を結んだサミュエルは、1898年1月8日に行われるドルドーニュ県上院議員選に立候補し、選挙運動のため前年の秋から冬にかけて週末にはパリからラ・グローレに戻ってきていたが、12月28日のポルト=サン・マルタン座での『シラノ・ド・ベルジュラック』の初演に招待されていた彼は、選挙運動の後、大急ぎでパリに戻ったと伝えられている。
(2) ムネ=シュリー
演劇のついでに言及すれば、ベルジュラックはまた名優ムネ=シュリー(Mounet-Sully, 1841-1916)の出身地でもある。1864年11月に医学の勉強のためにパリに向かったサミュエルとベルジュラック出身の同窓者たちの集まりで出会ったムネ=シュリーは、サミュエルよりも5歳年上で、当時はまだ演劇を学ぶ学生だったが、その後1868年にオデオン座でデビューを果たす。そしてコメディー=フランセーズを退団後、1869年に同じくオデオン座でデビューすることになるサラ・ベルナールをサミュエルに紹介するのもこのムネ=シュリーである。サラ・ベルナールとサミュエルとムネ=シュリーとの三角関係についてはここでは立ち入らないことにして、『三声書簡』に収められたムネ=シュリーを熱烈に褒めたたえるピエール・ルイスの言葉を紹介しておこう。『三声書簡』には、1888年12月7日、ジッドと連れ立ってコメディー・フランセーズにムネ=シュリーが演じる『ルイ・ブラス』を観に行く予定であることが記されていたり、1890年2月28日には、前日同じコメディー・フランセーズで演じられた『イフィジェニー』でアキレウス役のムネ=シュリーを観たことなどが記されているが、同年7月19日のジッド宛の手紙でルイスは、「見せ物に関しては、ぼくが自分に許しているのは、ワーグナー、ムネ、そしてサラだけだ[8]」と断言している。さらに、同年9月27日のヴァレリー宛の手紙では、ムネへの並々ならぬ心酔ぶりが吐露されている。
お許しください。私は今朝、少々頭がぼうっとしています。ムネ=シュリーの演じた『ルイ・ブラス』をもう一度見たのですが、最初のときと同様、私はすっかり心を揺すぶられ、頭に血が上ってしまったのです。[…]この男が何者か、あなたが意識しているかどうか私には分かりません。天才俳優がどのようなものでありうるのかについて、あなたが何かお考えをお持ちなのかも分かりません。しかし私は、まったく正直に言って、詩人であろうが芸術家であろうが、彼の域に達した生きた人間を一人も見たことがありません。今日、死んだとすれば彼ほどに取り返しがつかないと思われる人間も一人もいません[9]。
(3)プロテスタント教会
ベルジュラック市内にはカトリーヌの父方の祖父バンジャマンが建造し、説教をしていたプロテスタントの教会le temple de l’Église Libreがカンディヤック通りに今もなお残っている。
それとはまた別のプロテスタントの教会がドクトゥール・ケラ広場に面して建っている。「ベルジュラックはペリゴール地方で最初にして最大のカルヴァン主義の中心地[10]」だったが、この教会は宗教戦争のさなかに破壊されたカトリックのチャペルがあった跡地に16世紀の半ばに建てられた。ナントの勅令ならびにその廃止、そしてフランス革命の荒波を経て来た素朴な造りの建物であるが、その壁にはカトリーヌの詩《Scopolamine》の第一詩節の五行が書かれたプレートがかけられていた。
Le vin qui coule dans ma veine A noyé mon cœur et l’entraîne Et je naviguerai le ciel À bord d’un cœur sans capitaine Où l’oubli fond comme du miel. 私の血管を流れるワインは 私の心臓を溺れさせ、押し流す そして私は空を旅するだろう 船長のいない心臓号に乗って そこでは忘却が蜜のように溶ける[11]。
カトリーヌの詩の中で比較的よく知られている《Ave》でも《Vale》ではなく、ヴァレリーへの想いを絶ち、地上的なものへの未練をかなぐり捨てて別世界へ旅立とうという決意の読み取れる《Scopolamine》の5行をプロテスタントの教会の壁に掲げるとは、ベルジュラック市観光局もしゃれたことをするものだと一人で合点してしまった。
ちなみに、サミュエルはベルジュラック市内のプロテスタントの共同墓地に埋葬されているが、カトリーヌと母親のテレーズはカトリックの共同墓地に埋葬されている。1918年6月13日、サミュエルがパリで元患者によって銃殺された時、カトリーヌもテレーズもモンペリエにいたこともあって葬儀には出席していない。いずれにせよ、サミュエルとテレーズの生前の不仲は死後にまで持ち越されたようである。
終わりに
ラ・グローレ訪問を快く受け入れてくださった現所有者のシルヴィー・アダン夫人、夫人との橋渡しをしてくださった歴史家で《Les Pozzi》の著者ジャン=フィリップ・ブリアル・フォントリヴ氏とヴァーチャル書店「Galerie Bondier-Lecat – La Boutique」を経営するミシェル・ルカ(Michel Lecat)[12]氏に心から感謝の意を表します。
[1]Paul Valéry, Œuvres, tome 1, Édition, présentation et notes de Michel Jarrety, La pochothèque, LE LIVRE DE POCHE, 2016, p.728. [2]Jean-Philippe Brial Fontelive, Les Pozzi, Une famille d’exception, Les Éditions Esprit de Pays, 2019, p.170. [3]Lawrence Joseph, Catherine Pozzi, Une robe couleur du temps, Éditions de la Différence, 1988, p.140. [4]Ibid., p.141. [5]Bergerac de plume en plume, parcours libre &chemins croisés, Dessins de Jean-Louis Leclair, Textes de Jean-Philippe Brial Fontelive, Éditions Couleurs Périgords, 2006, p.18. [6]以上の情報に関しては、次の論文を参考にした。Un profond attachement à leur ville natale, in L’avenir du passé , n012, Les destins croisés de deux Bergeracois célèbres Mounet-Sully et Samuel Pozzi, Numéro spécial proposé par Jean-Philippe Brial et Bernard Clergeot, 2016. [7]Florence de Lussy, Charmes d’après les manuscrits de Paul Valéry, histoire d’une métamorphose I, Lettres modernes, Minard, 1990, pp.225-241, pp.361-362. [8]André Gide, Pierre Louÿs, Paul Valéry, Correspondance à trois voix 1888-1920, édition établie et annotée par Peter Fawcett et Pascal Mercier, Gallimard, 2004, p.250. [9]Ibid., p.312. [10]Bergerac de plume en plume, Parcours libre & chemins croisés,p.56. [11]Catherine Pozzi, Très haut amour, Édition de Claire Paulhan et Lawrence Joseph, Gallimard, 2002, p.27. [12]ルカ氏に関しては次の論考を参照のこと。Jean-Philippe Brial, Le fonds photographique Bondier-Lecat, Une inestimable richesse patrimoine, L’avenir du passé, no 7, 2013, pp.4-11.
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